狂うは君の名前
るいか
狂うは君の名前
名前はなかった。
与えられる理由もなかった。
呼ばれるときは「それ」か「おい」だった。
役割が終われば床に戻された。
床は硬く、冷たかった。
温度を感じない日は、なかった。
朝と夜の区別は、明かりの色でわかった。
でも、それに意味はなかった。
食事は決まった時間に与えられた。
食べられるかどうかは、その日による。
夢を見たことはない。
考える必要もなかった。
ただ、生きていた。
そんなある日——
「君、声が……鈴みたいだ」
そう言った“誰か”が、私を買った。
私はいくらだったの?
その価値が、本当に私にあったの?
行きの馬車の中、ゆらゆらと揺れる車輪の音に混じって、私はぽつりと尋ねた。
あなたは少しのあいだ黙っていた。
けれど、やがて、ぽつりとこう言った。
「人は――値段をつけられるものじゃないよ」
その声が、妙にまっすぐで、どこまでも温かくて。
私は一瞬、返す言葉を忘れてしまった。
私は思わず、笑った。
けれどそれは、嬉しいとか安心したとか、そういう笑いじゃなかった。
「変なの」
かすれた声が漏れた。自分でも、どこから出たのかよくわからなかった。
人に値段がつかないなんて——
そんなの、甘い。綺麗事。
私の人生はずっと“そうじゃなかった”のに。
それでもあなたは、首をかしげながら笑っていた。
まるで、私の傷の存在に気づいているくせに、
それごと包もうとしてくるみたいに。
「じゃあ、鈴って名前、つけていい?」
不意にそう言われて、私は息を呑んだ。
名前。
呼ばれたことなんてなかった。
番号で呼ばれ、命令され、売られるための音しか持ってなかった私に、
“君”は名前をくれようとしている。
「……どうして」
声が震えたのは、きっと馬車の揺れのせい。
それでもあなたは、変わらずに笑って言った。
「鈴の音みたいな声だったから。……それに、守りたくなったんだ」
屋敷に着いたとき、私は馬車の扉を開けてくれた人の顔を見なかった。
ただ、静かに頭を下げて荷台から降りた。
白い石造りの塀。
背の高い木々に囲まれた、絵本でしか見たことのないような大きな屋敷。
でも、私はそんなものには目もくれず、裏手に見えた小さな小屋へと歩いていった。
土の匂い。藁が積まれた木の囲い。
その前で私はそっと足を止めた。
手慣れた動きで、扉を開け、中へ入ろうとした、そのとき——
「……鈴?」
背後から、優しいけれど戸惑った声が飛んできた。
振り返ると、あなたがそこに立っていた。
眉をひそめて、何かを確かめるように私を見ていた。
「どうして、犬小屋に……?」
私は少しだけ首を傾げた。
「……ご主人様が暮らす場所とは、別だと思って」
答えた声は無感情だったはずなのに、喉がきゅっと締まった。
だって、これが当たり前だった。
食事は外で。眠るのは地面の上で。
人と目を合わせない。叩かれないように、声を出さない。
なのに——
「ここは、君の家だよ」
あなたはまるでそれが当然かのように言った。
そして私の手を取り、ゆっくりと屋敷の方へ導いていった。
その手はあたたかくて、
私は、もう一度この人の顔を見たくなった。
「それにそこは彼の別荘でもあるんだ」
そう言って、あなたは指を鳴らした。
すると、奥の木陰から、大きな犬がのそのそと現れた。
毛並みの良いその犬は、まっすぐに私の方へ寄ってきて、私の足元でふせをした。
驚いて立ち尽くしていると、あなたが笑いながら言った。
「君のこと、歓迎してるみたいだね」
私は慌てて少し後ろに下がったけれど、犬はただじっと、あたたかい目で私を見上げていた。
「怖くないよ、彼は優しいんだ」
あなたがそう言ってしゃがみこみ、犬の頭をなでると、
その大きな体が少しずつ私の方へとにじり寄ってきて、そっと鼻先を私の指に触れさせた。
……こわく、ない?
心の奥で、小さな何かが鳴った気がした。
名前を呼ばれたときと同じ、ちいさな“音”。
私はそのとき、ようやく少しだけ、
“家”という言葉の意味を知ったような気がした。
屋敷に入って間もなく、私はひとりの女性に案内された。
清潔なエプロンをつけた、優しげな人だった。
「お嬢様、お風呂の準備ができております。どうぞこちらへ」
“お嬢様”と呼ばれて、一瞬、誰のことを言っているのかわからなかった。
私のこと? でも私は……
——お風呂?
言われるがまま廊下を進むと、湯気の立ちこめる部屋へと通された。
木と石で作られた湯船の中で、透明なお湯が静かに揺れている。
窓から差し込む夕陽の光が、水面に反射してゆらゆらと踊っていた。
「では、こちらでお着替えくださいね。お手伝いしましょうか?」
私は思わず後ずさった。
裸を見せることに抵抗があったわけじゃない。
ただ、こんなに綺麗な場所に自分が入っていいのか、信じられなかった。
着替えを手伝われながら服を脱ぎ、そっと湯船に足を入れたその瞬間——
「……っ!」
思わず声が漏れた。
あたたかい。
それは体の表面だけじゃなくて、胸の奥までじんわりと溶かしていくような感覚だった。
ゆっくりと肩まで浸かると、全身から力が抜けていく。
目を閉じると、今まで自分がどれほど強張っていたのか、ようやくわかった。
「……こんなに、気持ちいいんだ……お湯って……」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。
まるで体の中で凍っていた何かが、溶けて流れ出すような感覚。
私は、湯の中で、初めて涙をこぼした。
泣いている理由なんてわからなかったけれど——
この涙だけは、汚れてなんかいない気がした。
お風呂から上がった私は、ふわふわのタオルで髪を拭かれ、
次に渡されたのは、可愛らしい服だった。
淡いピンクのワンピース。胸元に小さなリボンがついている。
「この服、私が……?」
こくりと頷いたメイドさんに導かれ、私は着替えた。
鏡に映る自分が、少しだけ“知らない子”に見えた。
用意された食堂は広くて、天井が高かった。
長いテーブルの端に私の席があり、その向かい側には“あなた”が座っていた。
「似合ってるね、鈴」
その一言に、胸がきゅうっとなった。
こんなにまっすぐ褒められたの、いつぶりだろう……。
しばらくして運ばれてきた料理は、見たこともないほど綺麗で、いい匂いがした。
ナイフとフォークが添えられていたけれど——
私は、そっと手を伸ばして、パンのようなものを掴んだ。
それが“いつもの癖”だった。
食べ物は早く取らないと無くなる。汚れてても関係ない。とにかく、食べなきゃ。
もぐもぐ、と口に運んで気づいた。
……音がしない。
顔を上げると、あなたが優しい目でこちらを見ていた。
怒っていない。でも、何かを言いたそうな顔。
「……あの、ごめんなさい。手で……」
声が小さくなったそのとき、あなたは静かに言った。
「いいんだよ、鈴。焦らなくていい。ゆっくりでいいから……一緒に覚えていこう」
ナイフを持つ手がとても丁寧で、私はその動きを真似してみた。
うまくいかなくて、フォークがすべってテーブルをカン、と鳴らした。
でも——
あなたは笑ってくれた。
「ほら、そうそう。大丈夫。もう一回、やってみよう」
その笑顔が嬉しくて、私はもう一度、ナイフを握りなおした。
夜。
豪奢な天蓋つきのベッドの中で、私はひとり丸まっていた。
白くて、ふわふわなシーツ。
天井には小さなシャンデリアが揺れている。
目を閉じると、今までの時間が全部、夢のように思えた。
お風呂のぬくもり。
柔らかいタオルの手触り。
綺麗な服。
温かい食事と、優しい声。
……でも、そんなもの、夢だったらどうしよう。
朝目が覚めたら、またあの薄暗い檻の中に戻っていたら?
想像しただけで、胸が苦しくなった。
——泣くのは、久しぶりだった。
声は出さない。誰にも気づかれないように。
でも、こぼれる涙は止められなかった。
すると、カサリと音がした。
顔を上げると、あの大きな犬が、そっと部屋のドアを鼻で押し開けて入ってきた。
「……どうしたの?」
弱々しい声に、犬は低く甘えたような鳴き声を返した。
そして、私の傍らに座ると、くるりと振り返り、ドアの方を見た。
まるで「待ってて」とでも言うように、一度だけこちらを振り返って——
犬は部屋を飛び出していった。
数分後。
ノックの音と共に、あなたが現れた。
寝間着のまま、少しだけ髪が乱れていて、それでも、心配そうに私を見ていた。
「鈴……泣いてたの?」
私は慌てて顔をそむけたけど、
あなたはベッドの傍に腰を下ろし、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫。これは夢じゃないよ」
その言葉に、喉がまた、きゅっと詰まった。
「君が望むなら、何度でも言う。
これは夢じゃない。君は、もうあそこには戻らない」
あたたかな声。あたたかな手。
私は、そっとその胸に顔を埋めた。
泣きながら、ようやく信じた。
——私は、ここにいてもいいんだって。
「ここは“ひらがな”って言うの。お名前を書くときにも使うのよ」
そう言って、メイドの女性——ミラさんは、私の手をとって鉛筆を動かしてくれた。
紙の上に残された、まるい線。たどたどしくて、ふにゃふにゃだけど、
それは私がはじめて自分で書いた名前だった。
「……す、ず……これが、わたし?」
「そうよ。『すず』。とってもかわいい名前ね」
名前。そう、これは“私”のもの。
ふわふわと温かい感覚が胸の奥に灯る。
私はその紙を抱えて、勢いよく部屋を飛び出した。
⸻
「ねえ!」
屋敷の廊下を歩いていた“ご主人様”——あの人を見つけると、
私は思わず声を張り上げた。
振り返る彼の顔は、やっぱりどこか柔らかくて、優しい。
「どうしたの?」
「……これ、見て……」
差し出した紙に、彼は目を細めた。
そこには私が書いたたどたどしい文字が、しっかりと並んでいた。
『すず』
「うん。すてきだね。上手に書けてるよ、鈴」
「ねえ……あなたの名前は、なんていうの?」
私は聞いた。ずっと、知らなかったから。
いつも“あなた”“ご主人様”って呼んでいたこの人の名前。
彼は少しだけ驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「……鈴が、一人でちゃんと眠れるようになったら、教えてあげる」
「え……?」
「それは“ごほうび”だよ。鈴が、自分のことをちゃんと大切にできるようになったら、
その時、名前を贈る」
私は、黙ったままその言葉を受け取った。
名前をもらえる。それは、とてもあたたかくて、でもちょっとだけ遠い気がした。
そのとき、どこからか「ワンッ!」と元気な声がして、
一匹の大きな犬が私の足元に飛びついてきた。
「この子は『ティノ』って言うんだよ。君のこと、すごく気に入ってるみたいだ」
「ティノ……」
私は犬のふわふわの背中を撫でた。
ミラさん、ティノ、そして“あなた”。
少しずつ、“世界”が名前を持ち始めた気がした。
その夜、私は眠れなかった。
ふかふかのお布団も、やわらかい枕も、
どこもかしこも温かいのに、胸の奥がずっと、きゅうっと苦しかった。
何度も目を閉じて、羊を数えてみても、
静まり返ったこの広い部屋の中では、どこかに落っこちてしまいそうだった。
だから、そっと布団を抜け出して、足音を立てないように廊下を歩いた。
⸻
暖炉のある部屋の奥、ふわふわのクッションの上で、ティノは丸くなって寝ていた。
私は隣にちょこんと座り、彼のあたたかい背中にそっと手を添えた。
「……ティノ」
くしゃくしゃの耳がぴくんと動いたけれど、ティノは目を開けなかった。
「あなたはティノ。私は、すず」
ぽつり、ぽつりと、小さな声で呟いた。
「私と遊んでくれる人は、ミラ……」
ティノの背中に顔を寄せて、私はそっと目を閉じた。
「ご主人様は、どんな名前なんだろうね……?」
言葉が、ちょっとだけ震えた。
「ティノは、知ってるの?」
応える代わりに、ティノのあたたかい体温が私の手のひらにじんわりと広がった。
誰も教えてくれなかった“あたりまえ”が、ここにはある。
でも、私の中にはまだ、“わからない”がたくさんある。
そしてその“わからない”が、知りたいと思えることが、
こんなにも心をあたためてくれるなんて、私は知らなかった。
最近、私は“ちいさなこと”を考えるようになった。
ミラがドレスをたたんでいるときに、後ろからくすぐってみたり、
ティノのしっぽにリボンをそっと結んでみたり。
もちろん、すぐに見つかって「こらっ」と怒られるけれど——
怒ったミラも、ティノも、みんな最後には笑ってくれる。
それが嬉しくて、私はまた小さな“悪いこと”を思いつく。
⸻
ある日、ご主人様の紅茶に、ミラからもらったお菓子をそっと浮かべてみた。
「……これは、新しいレシピかな?」
首をかしげるご主人様に、私はぷるぷると震えるくらい笑いをこらえて——
「おいしいですか?」とだけ聞いた。
ご主人様は私の顔を見て、ふっと笑った。
「なるほど。これは“すず味”か」
「え?」
「いたずらの味だよ」
すずの日記帳 いちにちめ
今日は「てーぶるまなー」というものを教わっている。
フォークは右、スプーンは上、パンは手でちぎって食べるらしい。
ミラはすこしこわい。
でも、できたときはちゃんとほめてくれる。
「すず、よくできました」って言われると、胸がぽかぽかする。
できることがふえるのは、なんだかうれしい。
名前をよばれると、みんなが笑ってくれる。
「すず」「すずちゃん」「おはよう、すず」って。
だから、私も——
ミラの名前も、ティノの名前も、おぼえた。
でも、ご主人さまの名前だけは、まだ、わからない。
しりたい。
でも、きくのが、こわい。
だって、しったら、きっと——
もっと、すきになってしまうから。
2日目
ティノが動かなくなった。
みんなが泣いている。私も泣いていた。
これがお別れというものだとご主人様から教わった。
私がティノのおはかをつくった。
ティノのだいすきだったおやつとティノのしっぽに結んだりぼんをいっしょにうめた。
きょうはなんだかひとりになりたくない。
きょうはティノにさようならを言った。
すごくさみしくて、こわかった。
だから、夜になって、ご主人さまのへやに行った。
ノックをしても返事はなかったけど、しずかにドアをあけた。
ご主人さまは、ねていた。
私はそっと足音をたてないように、ベッドのすみっこにすわった。
でも——
「鈴……こんな時間にどうして……」
そう言って、少し怒った顔をされた。
私はびっくりして、あやまった。
なにがいけなかったのか、よくわからなかった。
「……ごめんなさい。ひとりが、こわかったの」
ご主人さまは、それを聞いて少しだけ黙った。
そして——
「……わかった。でも、言葉にしてくれてありがとう」
そう言って、毛布をかけなおしてくれた。
私は何も言えなかった。
でも、怒った顔のあとに見せた、あの優しい目が忘れられない。
ティノにおはようって言ってしまった。
でももう返事はこなかった。
ご主人さまが言ってた。
「“おはよう”も、“さようなら”も、愛をこめて言えるなら、それでいいんだよ」
だから、きょうも愛をこめて言う。
てぃの、おはよう。
てぃの、さようなら。
きょうは くりすます というひ。
はじめて聞いた言葉。
ミラは「年でいちばんあったかくて楽しい日よ」って言ってた。
お部屋はキラキラしてて、甘い匂いがして、
私の机の上には、赤い包みの箱があった。
ご主人さまからの、ぷれぜんと……
私はうまれて初めて、じぶんのための贈り物をもらった。
すごく、うれしかった。
でも……
なぜだか、涙が出てきた。
「みんなが、いなくなっちゃったら……どうしよう……」
そう言った私に、ご主人さまは少し笑って、こう言った。
「名前を呼んでごらん」
「……?」
「その名前が、心の中に残っている限り、
その人はきっと、君の中で生き続けるよ。
鈴が“ティノ”って呼べば、ティノは答えてくれる」
……私はそっと、声に出してみた。
「……ティノ」
一瞬、あのあたたかい毛並みと、しっぽをふる音が聞こえた気がした。
名前って、すごい。
記憶の中に、命をくれる。
だから私は、今日のことをぜったいに忘れないように、
ちゃんと書いておこうと思う。
眠っていたはずの身体が、ふと冷えた空気で目を覚ました。
お手洗いに行こうと、そっとベッドを抜け出す。
廊下はしんとしていて、静かで……でも、
どこかで、かすかに声がした。
耳を澄ませると、リビングの方から——
「……あの子、最近笑うようになりましたね」
ミラの声だった。
「うん。毎日が“初めて”の連続なんだろう。きっと眩しいくらいに」
もうひとつ。
優しい低い声。ご主人様の声。
私は、足を止めた。
扉の影に隠れるようにして、耳を澄ませる。
「けれど、あの過去を……“あの子”は本当に、乗り越えられるでしょうか」
「……乗り越える必要なんてないよ。
忘れなくてもいい。ただ、名前をつければいい。
苦しさにも、寂しさにも……。そうすれば、向き合える」
しばらく、静寂が続いたあと——
「……あなたは、優しすぎます。“レノ”様」
その名前は、
私の知っているどの音とも違っていた。
——“レノ”様?
舌の奥で、そっと転がしてみる。
なんだか不思議な響きだった。
でも、胸の奥が少し、熱くなった。
私は、誰にも気づかれないようにそっと踵を返すと、
またベッドへと戻った。
その夜は、いつもより深く眠れた気がした。
ひみつをしったきぶん!
きのうのよる、わたしはひみつをしった。
ごしゅじんさまのなまえは、「レノ」っていうんだって。
みらがいってた。とってもすてきななまえ。
あさ、おはようっていったときに、
ごしゅじんさまに「にこーっ!」てしてみたの。
したら、「なにそれ」ってわらわれちゃった!
でもね、
わらってくれたのが、すごくすごく、うれしかった。
なんでだろう?
そばにいると、こころがぽかぽかする。
からだのなかに、あたたかいひかりがともるみたい。
レノさま。
あなたのなまえ、もうしってるよ。
でも……まだ、よんじゃいけないきがするの。
いつか、
わたしのこえで、ちゃんとよんでもいいひがくるのかな?
その村には、ひとつの古い言い伝えがあった。
“とある家系の者の真の名を口にすれば、魂を喰われる。”
誰が言い出したのか、いつから語られているのかもわからない。けれど村人たちは皆、それを恐れ、白い石塀の奥に住むご主人様のことを“レノ”とは決して呼ばなかった。
レノ様の屋敷は、村の子どもたちからすれば絵本に出てくるお城のようだった。でも、大人たちはあの家に目を向けようとはしなかった。
優しくても、何もしていなくても、ただ“その血”を引いているというだけで——。
それでも、私は知っていた。
ご主人様は、優しい人だ。
私に名前をくれて、あたたかいお風呂をくれて、お腹がすかないようにと食事をくれて……そして、毎晩「おやすみ」と言ってくれる。
でもある日、村でひとりの女の子がいなくなった。
ティノと遊びたかっただけ。
私と、ちょっとお話がしたかっただけ。
迷って泣いていたその子を、メイドのミラが見つけ、ちゃんと家まで送り届けた。
それなのに——。
「あの屋敷に近づいてから、あの子はおかしくなった」
「夜な夜な名前を呟いているのよ、“レノ”って……!」
「やっぱり、呪いよ……!」
疑いは、恐れに変わり、やがて怒りとなって燃え広がった。
“化け物の家系が村に災いをもたらす”
そんな根拠のない言葉に、人は簡単に飲み込まれる。
ある夜、村の男たちは松明を持ち、屋敷へ向かった。
怒号と、焔のうねり。
塀を越えて投げ込まれた火が、木々を、屋根を、カーテンを舐めていく。
村人たちの怒声が響く。
「やっぱりあの屋敷の主は化け物だったんだ!」
「娘を返せぇ!」
レノは鈴の前で、苦しそうに額を押さえる。
そして静かに言う。
「……僕の名前を……呼んじゃ、いけないよ」
でも、鈴は言ってしまっていた。
その名を。
何度も、何度も、心の中で。
そして今、口に出してしまった——
「レノ様……」
その瞬間、レノの体に異形の変化が起こる。
瞳は獣のように輝き、背中からは黒い何かが膨れ上がる。
ミラが絶叫する。
「鈴!!逃げて!!レノ様が……!」
でも、鈴は動かなかった。
涙を流しながら、レノの腕にしがみつく。
「どうして……どうして、名前がこんなにもあたたかいのに……っ」
「どうして、名前を呼ぶだけで、大好きな人が苦しまなきゃいけないの……?」
レノは何かを言おうとしたが、声にならなかった。
彼は、鈴の手を振りほどいて、村人たちの方へ歩き出す。
その背中を、鈴が抱きしめて止める。
「行かないで……私は、ミラも、レノ様も、一緒がいいの……!」
—
炎の中で、鈴はレノとミラと共に座り込む。
誰も、もう止められない。
—
三人は、燃えさかる屋敷の中で、静かに寄り添いながら――
世界に、名を呼ぶ最後の優しさを、残した。
狂うは君の名前 るいか @RUIKA1210
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