恋する魔法と炎上する心

第5話「『恋人召喚魔法』可決のお知らせ」

 月曜日の朝。私は魔法省に向かう電車の中で、空っぽになった空を見上げていた。


 昨日で空中移動魔法が終了し、三か月ぶりに人々は地上を歩いている。不思議なもので、空に誰もいないと寂しく感じる。


 でも、今日から新しい魔法が始まる。


 『恋人召喚魔法』


 その名前を思い浮かべるだけで、胃がきりきりした。課長の胃薬の気持ちがよくわかる。


 霞が関の魔法省に到着すると、いつも以上に慌ただしい空気が漂っていた。


「つばささん、おはよう」


 文鳥山ぶんちょうやま先輩が、いつものお菓子ではなく、大量の資料を抱えて現れた。


「おはようございます。今日はお菓子なしですか?」


「食べてる場合じゃないのよ。朝の五時から電話が鳴りっぱなし」


「もう問題が?」


「恋人召喚魔法、施行は午前十時からなのに、『どうやって召喚するんですか』『既婚者はどうなるんですか』『恋人の年齢制限は』って質問攻め」


 私は時計を見た。まだ午前八時半。施行まで一時間半もある。


「つばささん」


 のぞみさんが血相を変えて駆け寄ってきた。


「どうしたんですか?」


「記者会見の準備をしてたんですけど、記者さんたちから『実際に召喚してみせてください』って要求されてるんです」


「実際に?」


「はい。『百聞は一見にしかず』だって」


 私は想像して、背筋がぞっとした。記者会見で恋人を召喚するなんて。


「それは...」


「断ったんですけど、『魔法省は自分たちの制定した魔法に自信がないのか』って詰め寄られて」


 その時、課長が現れた。今日の胃薬は大きなボトルだった。


「おはよう。みんな、準備はどうだ?」


「課長、記者会見の件なんですが...」


 のぞみさんが事情を説明すると、課長の顔が青くなった。


「記者会見で恋人召喚だと?」


「どうしましょう?」


 課長は胃薬のボトルを握りしめた。


「とりあえず、『検討します』で...」


 その時、オフィスの時計が午前十時を指した。


 瞬間、私の目の前に人影が現れた。


「え?」


 それは二十代後半と思われる男性だった。優しそうな顔立ちで、スーツを着ている。


「あの...」


 男性は困惑しながら私を見つめた。


「君が僕を呼んだの?」


 私は固まった。これが恋人召喚魔法?


 周りを見ると、のぞみさんの前には爽やかな青年が、文鳥山先輩の前には渋い中年男性が立っている。


「おお...」


 課長が呟いた。


「本当に出現した」


 私の前に現れた男性は、まだ困惑している。


「僕、急にここに...何が起こったんだろう」


「あの、えーと...」


 私はどう説明していいかわからなかった。


「あなたは、恋人召喚魔法で召喚された...恋人、ということになります」


「恋人?」


 男性は首をかしげた。


「でも僕たち、初対面だよね?」


「そうなんです。でも法律で...」


 その時、電話が鳴った。いや、鳴りっぱなしになった。


 課長が受話器を取る。


「はい、魔法省です...はい...はい...全国で同時発生ですか...」


 私の前の男性が心配そうに言った。


「君、顔が青いよ。大丈夫?」


 優しい声だった。でも、この状況で優しくされても困る。


「大丈夫です。ありがとうございます」


「僕、田中健太って言います。よろしく」


燕野つばめのつばさです」


「つばささん、素敵な名前だね」


 なぜか照れてしまった自分に驚く。


「課長!」


 のぞみさんが慌てた声を上げた。


「記者さんたちから連絡です!『魔法省にも恋人が現れたか確認したい』って」


「確認って...」


 課長が状況を説明している間に、私は田中さんに向き直った。


「あの、田中さん」


「何?」


「この状況、どう思われますか?」


 田中さんは少し考えてから答えた。


「正直、訳がわからないけど...」


 彼は私を見つめた。


「でも、君に会えたのは嬉しいかな」


 私の心臓が跳ねた。これが魔法の効果なのか、それとも...


「でも」


 田中さんは続けた。


「僕には実は、付き合ってる人がいるんだ」


 私は慌てた。


「え、そうなんですか?」


「うん。だから、この『恋人』っていうのがよくわからなくて」


 その時、文鳥山先輩が大きな声を上げた。


「みんな、大変よ!」


「どうしたんですか?」


「既婚者のところにも恋人が現れてるって報告が!」


 課長の顔が真っ青になった。


「既婚者に?」


「ええ。『妻がいるのに、なぜ恋人が現れるんだ』って苦情が殺到してるわ」


 私は考えた。法律の文言は『国民は理想の恋人を召喚できる』だった。既婚者への制限は書かれていない。


「課長」


 私は言った。


「法律に既婚者の除外規定がないから...」


「そうだ。法律の文言通りに魔法が発動している」


 のぞみさんが震え声で報告した。


「記者会見、どうしましょう?報道陣が押し寄せてきてます」


「田中さん」


 私は恋人として現れた男性に相談した。


「私たち、記者会見に出るべきでしょうか?」


「記者会見?」


「はい。この魔法について説明する...」


 田中さんは困った顔をした。


「僕、人前に出るの苦手なんだ。それに、彼女にも説明しなくちゃ」


「彼女?」


「うん。僕が急にいなくなったから、心配してると思う」


 私はハッとした。召喚された恋人にも、それぞれの生活がある。仕事も、家族も、恋人も。


「課長」


 私は提案した。


「召喚された方々を、一度お帰しする方法はないでしょうか?」


「帰す?」


「はい。皆さん、それぞれの生活がありますから」


 課長は考え込んだ。


「魔法の解除方法は...研究所に確認してみる」


 その時、田中さんが私の袖を引いた。


「つばささん」


「はい?」


「君って、優しいんだね」


 彼は微笑んだ。


「僕たちのことまで考えてくれて」


 なぜか、胸が温かくなった。


 でも、これが魔法の効果なのか、本当の気持ちなのかわからない。


 電話が鳴り止まない中、私は思った。


 今度の魔法は、空中移動魔法よりもずっと複雑だ。


 人の心が関わっている。


「つばささん」


 田中さんが心配そうに見つめていた。


「また顔が青いよ。無理しないで」


「ありがとうございます」


 私は答えた。


 この人は本当に優しい。でも、それが魔法による感情なのか、それとも...


 わからないことだらけの一日が、今始まったばかりだった。


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 次回:第6話「偽りの恋と本当の想い」

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