第40話
604号室のドアを開けると、玄関に女性ものの靴が増えていた。乃亜は、廊下に貼られた羽川の札を踏まないよう、注意深くリビングに入る。若い女性の泣き声が聞こえた。
「柊木さん、ウコンドリンク買って来ましたけど……まさか今からお酒を飲むんじゃありませんよね?」
乃亜は怜司の姿を認めると、その場で固まった。
黒いノースリーブのワンピースを着た、髪の長い女性が泣きながら怜司に抱きついている。かなり背が高い。怜司より大きいのではないか。切り揃えた前髪の下の顔が紅潮して、大人とは思えないほど泣きじゃくっていた。メイクが可哀想な事になっている。
「俺じゃねーよ。コイツだ、コイツ」
怜司が傍の女を指差す。
「お取り込み中ですか?」
乃亜は呆れた目で2人を見た。大方、怜司に騙された女性ではないだろうか。
「ちげーよ。おい松島、自己紹介しろ!」
怜司が女の頭を小突いた。
「だって、だって……、ウザいから別れるって言うんだもんあいつ……。こっちはすぐにLINE返してるのに! 1日50件はメッセージ送ってるのに! 昨日だって、1時間待っても返事無いから電話しただけなのにぃ!」
「知らねーよ! その男に言え!」
「着信拒否されてるの! LINEもブロックされてるし! ひどい! ひどすぎる!」
女は首を振って、また怜司に縋り付いた。
「あの……どういう状況ですか、これ?」
乃亜は、奥の部屋からリビングに入ってきた羽川に聞いた。
「あまり気にしなくて良いですよ。この人、大体いつもこの調子ですから」
羽川は驚いた様子も無く、乃亜の買い物袋を受け取った。
女はひとしきり泣くと、ソファーに横になって静かになった。
「ようやく落ち着いたな……。酒飲んで仕事に来るなっての」
怜司も慣れた様子で、タオルを女にかける。
「大丈夫ですか、この人?」
乃亜は不安気に女を見た。豪快に寝息を立てている。
「危機察知能力は高いから、もうすぐ起きるだろうよ」
怜司は引っ張られて着崩れた服を直した。
「そうだ、お前に紹介してなかったな。こいつは松島カリナ。俺と同じ、四ツ辻不動産の社員だ」
「不動産会社の……方ですか」
今ひとつ、イメージが湧かない。
「こう見えて、俺よりバリバリの武闘派だ。幽霊専門のな」
「霊能者の人なんですか?」
「平たく言えばそうだ。本人はあまり自覚は無いようだが。……どちらかというと、特異体質と言った方がいいかもな」
寝ているカリナを覗き込むと、左腕に切り傷の痕が見えた。
「この傷って……」
「ああ……それは気にしなくていい」
「は、はい」
乃亜は傷口から目を背けた。傷のいくつかは、まだかさぶたになったばかりで生々しい。
「お前も見た通り性格に難ありだが、幽霊退治については四ツ辻不動産の中でも指折りのエースだよ。ま、起きたら改めて話すとして……先に弁当食ってようぜ」
「そ、それじゃいただきましょう」
乃亜はレジ袋から、パックに入ったロースカツを取り出した。1個、2個……。合計7個のトンカツがテーブルの上に並んだ。
「おい! トンカツだけかよ!」
「心配しなくても、ごはんもありますよ」
白米がパンパンに詰まったパックを取り出した。
「ゲン担ぎですよ。トンカツをいっぱい食べて、お化けに勝ちましょう!」
「脂ものはあまり好きでは無いのですが、仕方ないですね……」
羽川は腹が減っていたのか、真っ先にテーブルに着いて食べ始めた。
「冷めないうちに柊木さんもどうぞ。美味しいですよ」
乃亜も既に口に運んでいる。
「だからってこんなに食えるかよ……」
「食べないなら私がもらいますよ」
結局、乃亜はトンカツを4枚食べ切った。
午後10時を回った頃、カリナがのそのそと起き出し、洗面台に向かった。10分後、リビングにすらりとした美女が現れた。
「あの……みなさん、お見苦しいところをお見せしました」
そう言って頭を下げる。化粧を直したら、想像以上に美人だ。
「もう慣れたよ」
怜司が呆れたように言うと、羽川も頷いた。
「これでも飲んどけ」
怜司がウコンドリンクを投げると、カリナは右手でキャッチして、一気に飲み干した。
「仕事前に酒飲むのは止めろよな」
「だってぇ、柊木さん……」
カリナの目に涙が溜まる。
「はいストップ! 話は後で聞くから、今は準備を急げ!」
「はい……」
カリナは大きな鞄から錠剤を取り出すと、水筒の水で飲み始めた。一種類では収まらず、次から次に薬を取り出しては口に運んで行く。
「あの、水なら冷たいのがありますけど」
「ありがとう……。でも大丈夫。これ、血を増やす特別な薬だから。えーと、あなた誰だっけ?」
カリナは弱々しく微笑んだ。
「早霧乃亜です。初めまして」
「うん。これが、この世で最後の挨拶にならないと良いね」
カリナは冗談とも本気ともわからない笑顔を見せた。
「縁起でもねーこと言ってんじゃねーよ!」
怜司がカリナの頭を小突いた。
「……そろそろ気を引き締めた方がいいですよ。奴らが騒がしくなる時間です」
奥の部屋で準備をしていた羽川が入ってきた。いつの間にか、神主が着ているような、白衣と水色の袴に着替えている。いつも被っているニット帽も脱いでいた。怜司から聞いていた通り両耳が無かったが、その風貌が一層迫力を増していた。乃亜は唾を飲み込む。
「さすが羽川さん! 仕事が出来る男! ぜひ付き合ってください!」
「お断りします」
羽川は即答した。
「えー、何度も言ってるのにぃ」
カリナはふてくされた。
「手近な男で済ませようとするのやめとけよ……」
カリナは水筒の液体を何本も飲んだ。不思議そうに見ていると怜司が声をかける。
「乃亜、お前も動きやすい服に着替えてこい。靴も履いておけよ、逃げやすい様にな」
「あ、はい……」
乃亜は、書斎へ行くと本棚の影で着替えた。もともとそれほど装飾性の高い服を着ていたわけではないが、やはりこれが一番動きやすい。緑色の毛玉の付いたジャージを着て、チャックを首元まで一気に引き上げた。髪を頭の後ろでまとめて、ゴムで結う。
リビングに向かう前に、廊下の突き当たりのベランダへ続くドアを見た。取手に、千切れた紐のお守りがぶら下がっている。
歩み寄ってお守りを握ると、強く祈った。
お母さん、私を助けて。
「お待たせしました!」
「お前、また小学校のジャージかよ……」
怜司が呆れ顔で笑った。
「違います、中学校のです! いいじゃないですか、これが一番動きやすいんですから!」
「しょうがねえな。それじゃあ、今日の作戦を言うぜ……」
乃亜は、座ったまま額を机に打ちつけ、痛みで目が覚めた。寝てはいけないとわかっているが、気を抜くと意識が遠のく。額をさすりながら時計を見ると、午前1時を回っていた。部屋にいる者は皆、しばらく前から話もせずにじっと待ち続けている。怪異がやって来るその時を。
ピンポーン。集合玄関のチャイムが鳴った。
乃亜が立ち上がる。
ピンポーン。もう一度、大きな音が響いた。インターホンに出ようとする乃亜を、怜司は手で制した。
乃亜がランプが点滅しているインターホンを見つめていると、カチ、と音がして、勝手に通話が繋がった。
画面には誰も写っていないが、右端の方に人影が写っている。
乃亜は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……お姉ちゃん?」
乃亜は息を呑んだ。聞き覚えのある声が部屋に響く。
「いるんでしょ……? わかってるよ、そこにいるの。中に入れてくれる?」
怜司を見ると、あごをしゃくった。話せ、と言う意味だろうか。
「沙羅……なの? なんでこんな遅い時間に、あんたがここにいるの?」
乃亜は恐る恐る声を掛けた。
「だって、あの家にいるのが怖いんだもん。お姉ちゃんが帰って来ないから、私の方から来ちゃった」
「……嘘。沙羅は、叔母さんの家に泊まっているはずでしょ」
沙羅と瓜二つの声に、乃亜も思わず声が上擦った。
「えー? 叔母さんも一緒に来てるよ」
「……乃亜ちゃん? 舞子叔母さんよ。沙羅ちゃんが寂しがるから、一緒に来たの。早く開けてくれる?」
「叔母さんも……来たの?」
叔母の声も、本人と何も変わりがない。しかし、本能が違うと警鐘を鳴らしていた。
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