第32話

 よし、もう少しだけ頑張るぞ!

 里中と話した後、乃亜はそんな気持ちで604号室の玄関を開けた。


 パァン! と音を立てて左手のお守りの紐が千切れ落ちた。

 あー、そうなっちゃいますか、と独り言を言って紐を拾い上げると、リビングのドアを開けた。


 空気が淀んでいる。朝見た男が、今も無言で立っていた。

 困ったな、と言いながら横を通り過ぎて奥の部屋に向かう。和室に入ろうかと思ったが、昨日の出来事を思い出して、開きかけているドアを閉めた。


 残るは書斎か。乃亜は廊下の奥へ進み、書斎に向かった。クローゼットのある寝室のドアに貼られた札は、いっそう黒く変色しており、周囲の何枚かが剥がれ落ちていた。

 廊下の突き当たり、書斎のドアより先に、ベランダにつながっているドアがある。乃亜は、何となくちぎれたお守りの紐をそのドアの取手に結び、手を合わせた。



 書斎の明かりを点ける。大きな本棚は動かせそうもなく、布団を敷けるほどのスペースは無い。部屋の奥側にある広い机の上で寝たらどうだろう? と思ったが、寝心地は悪いだろう。本棚と本棚の隙間になら、何とか横になれそうだが……。


 そこで乃亜は閃いた。クローゼットの扉を開き、中を漁る。中のものを放り出しながら、目当ての物を探していると、期待した通りシュラフが見つかった。


 前の住人はキャンプが趣味だったのだろうか? 一度、屋外で使ったものを、部屋の中で使うのは少し悪いような気もしたが、もうそんなことを気にしていられない。

 本棚の間の床に、シュラフはピッタリ収まった。寝返りはできないかもしれないが、あと1日の我慢だ。



 ジャージに着替えて歯を磨いていると、スマホが鳴った。

「よお、調子はどうだ?」

 怜司の軽い調子の声が静かな部屋に響く。


「どうもこうもないです……。私、本当に呪われてるみたいで……」

 乃亜は、マンションの外でも死霊が付いて回っている事を話した。身近な友達や、妹にも影響が出始めていることも。

「へー、妹がいるのかよ。奇遇だな、俺にも妹がいてな……」

「あの、柊木さんの妹の話はまた別の機会にお願いします。私、本当に困ってるんです。私だけならまだしも、小春や沙羅まで巻き込んじゃうなんて……」

 話しているうちに、乃亜の頬を涙が伝っていた。その気は無いのに、嗚咽を止めることができない。


「おいおい、泣くなって。お前のせいじゃねえ、お前はよく頑張ってる」

 怜司は、慰めるように優しく語りかけた。

「はい……」

 乃亜は、鼻を啜り上げた。


「私も、こんな仕事を紹介してきた柊木さんのせいだと思ってます。未成年を騙して、こんな危ない仕事をさせるなんて、本当に人間のクズです。ちょっと顔がいいからって調子に乗ってるし、絶対に許しません」

 乃亜は、つい本音を漏らしてしまう。


「……んじゃ、辞めるか?」

「冗談はやめてください! あと1日なのに辞める訳ないじゃないですか!」

 乃亜は即答した。

「お前のそういうところ、マジで尊敬するわ」

 怜司は呆れたような、感心したような声を上げる。


「……でもなぁ、今晩中に解決、て訳には行かなそうなんだよな」

「え? でも、明日で1週間なんですけど!」

 乃亜は慌てて食い下がった。

「でも、お前呪われてんだろ?」

「はい、多分」

「それがお前の妹や、連れにも広がってるかもしれないんんだろ?」

「はい、あまり考えたくありませんが……」

「なら、もう少し気張れや。今辞めても呪いは解けない。無事に帰りたいなら、もう少し付き合えよ」


 乃亜は頭を巡らせた。あと1日と思って頑張ってきたのに、ここで延長されるのはキツい。怜司は、自分を騙してバイトを続けさせようとしているのではないか?

 ……しかし、怜司の言葉を完全に否定する根拠も無い。実際にマンションから離れても、霊に囲まれているのだから。


 その時、着信を告げる呼び出し音が鳴った。沙羅からだ。

「ちょっと待ってください!」

 乃亜は怜司の通話を切った。


「沙羅?」

「お姉ちゃん! く、黒い人が!」

 スマホから、沙羅の悲鳴が響いた。


「どうしたの!? 落ち着いて話して!」

「さっき、お風呂場の前で黒い人を見たの! ユーレイだよ、ユーレイ! 私が叫んだら、すぐ消えちゃったの! ねえ、すぐ帰って来てよー!」

「お、落ち着いて。今は何もいないんだね?」

「いないと思うけど……怖いよー! ねえ、帰ってきて!」


「だ、大丈夫だから、落ち着いて。きっと見間違いだよ」

「そんなことない!」

「いやいや、一回しか見てないなら、勘違いかもしれないって。幽霊なんて今まで見た事ないでしょ?」

「それはそうだけど……。見間違い、じゃないと思う……」

 少し声が落ち着いてきた。


「でも、お姉ちゃんユーレイ見えるんでしょ? お姉ちゃんが見て、いなかったら安心できるんだから帰ってきてよー、お願い」

 どうしよう。帰るべきだろうか。しかし、怜司の言う通り、自分が行ったらますます霊を呼び寄せてしまう可能性がある。しばらく考えた末、覚悟を決めた。


「……ごめん。バイト先でトラブって、今日は帰れない。もしかしたら明日も。もう大きいんだから、1人で留守番してて!」

 乃亜は通話の終了ボタンを押した。


「おっ、トイレか? 長かったな?」

 怜司は待ち構えていたのか、すぐに呼び出しに反応した。

「違います!」

「そっか。で、どこまで話したっけ?」

「……私、この呪いを解くまではバイト続けます」

「おー、そう来なくっちゃな!」

「でも」

「なんだよ?」

「追加料金貰います。1日10万円で」

「はあ!?」

「私、幽霊が見えるし、絶対役に立てると思います。それに、バイト代が安かったらズルズル引き止められそうな気がするので」

「うーん……」

 怜司は黙り込んだ。


「まあいいぜ。その危険手当出してやるよ。俺の取り分は減るけど……まあ、すぐ解決すりゃいいだろ」

 怜司は電話口で1人で納得した。

「すぐ解決……って、何か糸口が見つかったんですか?」

「ああ。直前の住人のことなんだけどな」

「クローゼットで自殺してた人のことですか?」

「そいつはその前だって言っただろ! 行方不明になってる奴だよ!」


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