第23話 うすはなざくらIII〜Cherry Blossom III

篝火かがりびが薄く捉える二本の角を生やした鬼女そのものの影が揺らめく。


そして、泥沼に足を取られたかの如くその場から動けないでいるわたしの方へ、下肢を引き摺り、体をくねらせながら、焦らすようにゆっくりと向かってくる。


艶を帯びて潤む、試すような上目遣いで向ける視線……。

それは蔦で作った罠のようにわたしの心に絡みつき、呼吸すら止めてしまいそうだ。


やがて、金色に光る産毛まで見えるほど顔を近づけると、わたしの胸元にねじ込むようにぎゅうぎゅうと頬を押し付けた。


熱っぽい吐息が、すっかりはだけてむき出しになった胸元に、ふわり、ふわりとかかる。


それに合間って鋭利な角の先端のチクリチクリとした断続的な刺激が、恋に盛っていた頃を嫌でも想起させ、熱い塊となった煩悩が喉元にジリジリと焼きつく。


しかし、わたしの記憶にあるよりずっと、肌に直接触れる薄い皮膚は、冷たい。


それらの全てが――。

まるで、夜桜の佇まいのようにわたしを慄然とさせる。


わたしは……優臣は、何に怯えてる……?

この先にある予感が、背徳に満ちた世界だから?

所詮はヒトの為だけに在る掟なのだということを、今はわかりきっている。

しかし、幼き頃から刷り込まれたそれを、急に振り払うのは思いのほか難しい。


「教えてあげる。どうやって彼処を出たのか」


ハユンはわたしの心の内を知ってか知らぬか、からかうように嘲り嗤いを浮かべながらそう言って、首をだらりとしなだれると襟元からするりと肩を抜いた。


「こうしたの……」


右の乳房が、目の前で露になる。


「――!」


わたしは、へその下を揺さぶるような動揺に、声も出せないでいる。

しかし、そのフォルムはどこか可愛らしく能天気で、まるでわたしの葛藤などあざ笑うかのようだ。


「簡単に開けてくれたわ」


制御を失い加速する鼓動が、狂ったように胸骨を叩き、あまりの息苦しさから、まわりの景色がぐるぐると回って見えるほどに激しい目眩を覚える。


ハユンが――。


今、わたしから何もかも奪おうとする。

言葉も、視界も、羞恥も、正義も……なけなしの理性すら、根こそぎ。


耐えがたいほどの空腹感から、震える手で、目の前の乳房を捥ぐようにわしづかんだ。


一度触れればもう、転がるように外道へと堕ちるまでだ。

我を忘れ、懐かしい弾力に身を震わせながら執拗にそこを撫で回し続ける。


……しかし、それは手の中で、すぐに別の質感へと変化した。


柔らかくて滑らかだったそれとはまるで違う、固く、ところどころささくれ立ってざらざらとした感触。


何が起きたのかわからずにあたりをキョロキョロ見回す間抜けなわたしの頭上から、桜色の無数の花びらたちが宥めるようにさらさらと振り堕ちてくる。


見上げると、枝にみっちりと咲き誇る八重桜の隙間から差し込むやわやわとした日差しが、角膜を刺激した。


ハレーションに目が眩み、手の甲で我武者羅に瞼を擦りつける。


そして改めて辺りを見渡すと、わたしはあの、懐かしい丘の上に来ていた。


そしてようやく、夢中で撫で回していたものが木皮のそれだったことに気づき、わたしは急に恥ずかしくなって慌てて手を引っ込める。


――闇はどこへ消えたのだろう?


「よう」


……少し離れたところで、誰かの声が聞こえた。


「久しぶりだな、鬼っ娘。こんなところで何してる?」


「あ、馬小屋のおじさん。こんにちは」


まるで高解像度のホログラムのように、わたしの目の前で、屋敷を一望できる丘の頂きに背中を並べて腰掛けるデソンとハユンの姿が忽然と現れた。


「ハユン」「デソン」


花を垂らした八重桜の太い幹に身を隠すようにして立ち、恐る恐る二人の名を呼んでみたが、彼らの耳には――ハユンにさえ、その声が届いている様子はない。


「ここからの眺めが懐かしくて――つい、来ちゃった」


「随分大きくなったなあ、その腹。いつ生まれるんだ?」


ハユンは膨らんだそのあたりをくるくると円を描くように撫で回しながら、少し恥ずかしそうに答える。


「ふふ、もう臨月だから、いつ産気づいてもおかしくないわよ」


弾むように答える声をよそに、デソンは複雑そうな面持ちでハユンを見つめる。


「そうか。いいのか? 鬼っ子。それで」


「いいって、何が?」


「……」


言葉に詰まるデソンに、ハユンは内側から光を撒き散らすように微笑みかけた。


「この子に会えるのが、とっても待ち遠しいの。それに」


「――それに?」


「ふふ、何でもない。あのさ、優臣は元気にしてるかな? あの海辺の街で……」


(聞いてないぞ? ハユンが身ごもっていたなんて――)


わたしは混乱していた。

そんなハユンの様子は、どこから見ても不幸そうには見えない。


……幸せであってほしい、と祈っていた。

だから、これで良いではないか――。


なのに、他の男の子供を宿し、満ち足りた表情をするハユンを見ていると、もどかしさと嫉妬の炎が、じわじわと胸に迫ってくる


突如突きつけられた現実に、心の整理というものをどうつけて良いのかわからないのだ。


「俺はここにいるぞ――!」


そう吠えるように、わたしは叫んだ。

けれど、やはりふたりに聞こえる様子などない。


すっかり打ちひしがれたわたしはふたりの様子を見ていることすら耐えきれなくなって、再び天を仰いだ。


すると――。


青い空は瞬く間に灰色に染まり、どす黒い雲がいくつもの渦を巻いてそこを埋め尽くしていった。


空をかち割るような稲光と、地響きのように轟く雷鳴。


そして、空から落ちてくるものが花びらから雨の雫に変わったことに少し遅れて気づくと、あっという間にそれは激しい豪雨に変わる。


そう、いつの間にかシーンは一転してまた別の幕へと切り替わっていた。

満開だった桜の木は、花も葉も、今はすっかり散り落ちて跡形もない。


「お願い! その子を返して!」


刺すように悲痛な、女の声がした。


「言ってることの意味がわからないわ……」


それは、ハユンのものだった。

その声はわななき、震えている。


(何が……どうしたというのだ)


彼女の視線の先には、対峙するように、数人の男を引き連れた別の女が立っている。


(あれは……ファヨン――)


あの女の、おどしつけるような立ち姿を、わたしが見間違えるはずなどなかった。

何か小さな、白い堤のようなものを抱きかかえている。


「お願い――返して――返してください!

一体、その子の瞳のどこが、何だというの」


薄い夜着だけを纏った濡れ鼠のようなハユンが、髪を振り乱し、必死の形相で、ファヨンの袖にすがって泣き叫んでいる。


(あれが……ファヨンが抱きかかえているのがハユンの産んだ子だというのか)


「離しなさい、離すのよ!

ええい、ウヌを差し置いて、何処ぞの青鬼と契りやがって、汚らわしい」


(――青鬼? 何を言っているんだ?)


その部分だけを見聞きして、何が起きているのか判断できるはずもない。

しかし、ハユンに何か良くないことが起きていることだけはわかる。


「何故なの――? ねえ、あなたたち、その子の目、青に見える?!」


男たちはそれには一切答えず、押し黙ったまま、有無を言わさずハユンをファヨンから引き離しにかかった。


「狂ってるわ――お義母様も……あんたたちもよ!」


ファヨンは鼻を鳴らし、「般若」のような風情で、その声を遮った。


「人を気狂い扱いするのかい?

――なんて恐ろしい娘だろう! 角まで生やして」


「馬鹿馬鹿しい――! その子の目が青いもんか!」


「ええい、皆の者、この無礼な女を捉えよ! 地下牢にぶち込んじまいな」


ハユンはそのまま濡れて泥濘んだ地面に頬を押し付けられるようにして抑え込まれてしまう。


あの女の、無慈悲な声が響きわたる。


「汚れた赤子なんざ、山に捨てておしまい」


取り巻きの一人がファヨンから赤子を受け取り、そのまま逃げるように走り去ろうとした。


「明日の朝には野犬の餌ね」


(何てことだ……)


人でなし、という言葉がある。

ファヨンという女はもう、既にヒトにすら見えなかった。

耳を覆いたくなるほど残酷な台詞の数々を、平然と言って退ける。


『夜叉』


その時、わたしは狐を前に震え上がったデソンの目線の先にあったものを、そこに垣間見た。

いいや……『垣間見た気になって』いた。


「いやあ――」


ハユンは、ファヨンのその言葉を遮るように金切り声をあげる。


その泣き叫ぶ声を聞いて後ろ髪を引かれたのだろう、男は一度足を止め、顔の角度を少しだけ変えた。


(――!)


そいつの顔半分が露わになった時、わたしは驚愕し、一瞬血の気が引いた。

それが、良く知る男の顔だったからだ。


わたしはその時――その男からハユンが子供を産んだことなど一言も聞かされなかった理由を、自ずと知ることになる。


ハユンの赤ん坊を連れ去った男……それは他でもない、デソンだったのだ。


[つづく]

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