第12話 そうぎょくいろ〜Sapphire
生まれて初めての恋に破れたわたしは、変わり果てた姿のまま、哀しみに暮れていた。
この岩屋に着いて、五回目の朝を迎える。
追っ手はいつまでもやってこない。
やってくるはずもない。
結局、わたしなど、わたしを島から連れ出したイ・ソンジュが亡くなったその日から、サンドバッグに成り代わる以外はなんの用途もない人間だったのだ、と改めて思い知らされた。
いいや、人間などではなかった。
わたしは青の鬼。
青い瞳に、身体に漲るこの力。
しかし、それが俺に何をもたらした?
ハユンをこの手から滑り落ちるのを、ただ見ていることしかできなかった。
俺は一体、何のためにこの力を得たのだ。
何のために生きているのだ。
おばあとデソンの会話からすると、ソンジュはそれを知っていた上で、何らかの思惑があったようだ。
(知っていて、俺をどうするつもりだったのだろう……)
そんなことが、不意に頭をかすめた。
しかし、愛する女性との未来を完全に失った今のわたしにとって、それは既にどうだっていい事柄のひとつに過ぎなかった。
今頃ハユンは、輿入れを済ませ、ウヌと……。
それを想うと、はらはらと目尻を伝い、涙が零れ落ちた。
周囲のものが、碧々と爛れて見える。
その様子を見て、狐がほう、と息を漏らす。
「私は青の鬼というものを、生まれて初めて目にするのですが……。
そうして、
こんな時に。
「不届きな奴」
「い、いいや、その、失礼しました……。
青の属性は、それが理由でその種を巡っての争いごとが絶えず、数もすっかり目減りしてしまった。
残党は皆、散り散りになり、正体を隠して暮らしていると聞いて……」
「ふん。だいたい、おまえがそれを言うのも可笑しい。
おまえこそ、周りが放っておいてはくれなそうだ」
「そうなんです! なんというか……。
青の鬼族と、私たち『狐』の境遇はとてもよく似ている。
だから親近感を覚えるのかも。
“たち”とは言え、私が最後の
「だったら何の義理もない俺のことなど放っておいて、これを機会に番いの相手でも探したらどうだ。
おまえなら相手に不自由はしないだろう」
わたしは憮然としたまま、そう言い捨てた。
すると狐は、にわかに頬を引きつらせる。
「私は男でも女でもありません。生殖機能を持たない出来損ないなのです」
だからシン家の影の存在としての役割を全うすることに一生を捧げるのです。
これもその役割のひとつです――と白けたような笑みを浮かべる。
「私を最後に、この種は絶える運命なのです。
だからこそ、私はシン家に拾われたのですよ」
日が高いうちはそうやって、橙色から紫色に変化を繰り返す炎の揺らめく様子を、虚ろな目で眺めながら、BGMのようにとりとめのない身の上話に耳を傾ける。
そして、時折いいかげんに突っ込んでは、その狐がどこからか調達してきた糟臭い米酒をぐびぐびと煽る。
酔いどれても、繰り返し溢れる哀しさや、寂しさや、悔しさといった感情がどうにかなるわけもない。
しかし、潰れそうな胸の痛みをアルコールが麻痺させ、幾分かは楽になる。
そうでもしていないと、息もできないほどに苦しいのだ。
日が暮れる頃には立ち上がることも難儀になって、意識も朦朧とする。
そして、この世で一番愛しく、一番憎らしくもある固有名詞をうわごとのように呟きながら、いつの間にかそれと同じ姿に形を変えた狐の膝に縋り付き、眠りについた。
その繰り返し。
そうして、結局、一月が過ぎた。
その頃には、もはや盃を持つ手が常に小刻みに震えているような酷い有様で、ひとつしかなかったそれはその日、ついにおぼつかないわたしの手をつるりと滑り、ぱりん、という乾いた音をたてて割れてしまった。
狐が、その欠片を静かに拾い集める。
それをまったく無視して瓶に両腕を突っ込み、今度は手柄杓で飲み出そうとするわたしの醜態を見かねた狐は、小屋じゅうに響き渡るほどの大きなため息をついた。
「貴方のことは本当に何でもわかってらっしゃったのですね、お嬢様は」
「……」
「どこかに辿り着くまでは、何としても真実を隠し通すべきでした」
一向に元に戻らず、そうしようともしないわたしに、狐は少しばかり気色ばんだ目を向ける。
「あれはまだ読ませるべきではなかった。
これじゃあ、いつまでたっても先になど進めない」
相当にあさましい姿を晒しているのは分かりきっている。
しかし、ハユンを持ち出して指摘されると、わたしとしては面白くない。
「いいぞ。
こんな俺のことなど置き去りにして、好きなところに行けよ。
そこにある金塊も、好きなだけ持っていくがいい」
冷たく、そうあしらってみせた。
しかし、狐からはその時、肯定の言葉も否定の言葉も……感嘆詞すら、返ってくることはなかった。
そんなやり取りのあった次の日の朝。
わたしは同じように、さらさらした薄布の、なめらかな感触で目覚めた。
しかし頭の下に敷かれていたのは膝ではなく、すっかり薄汚れてはいるものの、きちんと畳まれ重ね置かれたソッチマ、チマやチョゴリといった、ハユンの身につけていた衣類一式だった。
寝起きの体勢のまま、ずるずると蛇のように移動し瓶を覗き込むと、中は空っぽになっていた。
そして、葛籠の蓋を開けてみると、隙間なく並んでいたはずのそこには、金塊ひとつ分の凹みができている。
「そうか。行ったか」
ついに愛想をつかされたらしい。
カラカラに乾いた褐色の楓の葉が木枯らしに踊り、螺旋を描きながらわたしの足元をすり抜ける。
それは金色に輝く九つの尾をはためかせながら、見たこともないほどの大きな狐が野山を目にも見えぬ速さで走り去る姿を想起させる。
「……寒いな」
わたしは手を交差させ、自分の肩を抱いた。
とうとう、わたしは独りになったのだ。
日が高く昇り、逆に岩屋の中が翳って薄暗くなると、わたしは本当に久々に、光の差すほうへと誘われるようにして、岩の迫り出した入口まで出てみた。
ここに来てから絶えず摂取していたアルコールが少し抜けると、水の中から見ていたようなぼやけた世界の輪郭が、くっきりと浮き立って見えた。
冬の訪れを感じさせる澄んだ空気に浮かぶ、遠くの山々。
穏やかな自然光を浴びて、深緑に佇む常緑種。
枯れ葉に覆われた、こんもりと盛り上がった地面。
こんなふうに無駄に引きこもっていても、季節はわたしの気分とは無関係に移ろい、時は容赦なく過ぎていくだろう。
このじくじくと疼くような胸の傷みも、いつかは時が癒すというのだろうか?
そこまで考えた時、どこからか、カサカサという、落ち葉を擦り合わせたような音が聞こえた。
だんだんと此処に向かって、近づいてくる。
この岩屋を探す、旅人か?
外に出て緩やかな下り坂を見下ろす。
しばらく様子を伺っていると、その人影がわたしに向かって大きく手を振った。
「優臣――!」
一瞬、空耳ではないかと疑った。
それは弾むような、わたしを呼ぶ、あの声だった。
その声の主が、チマの裾を持ち上げ、小走りして近づいてくる。
そして目の前に立つと、肩を弾ませながら、わたしの
「あの……もしや、前に進む決心がついたのですか?」
口調はそのままだが、不思議なことに、声はまさにハユンのそれだ。
その言葉を聞いて、わたしはさらさらと髪を繰り返し撫でる薄い手に、自分の手を重ねると、いつの間にか角が消えていた。
わたしはその時やっと、自分が元の姿に戻っていたことに気づいた。
「良かった。目の色も元に戻っています」
「ジュンス……」
狐の名を口にする、あっけにとられたわたしを見て、綻ぶように
「決めたのです。
これから貴方の好きなだけ、しばらくお嬢様に成り代わりましょう。
金塊はひとつ拝借させていただきましたが、使い方としては悪くないでしょう?」
そう言って、わたしの前でチマを広げ、くるりと一度、回って見せた。
今までのくすんだ色合いとは違い、目の覚めるような緋色のそれに、若草色のチョゴリ。身につけたものが明るい色彩に一新され、薄く紅を差したように上気した顔色は、花が咲いたように可憐で、笑顔がキラキラと輝いて見える。
「ああ。良く似合ってる」
そう答えると、はにかむような戸惑いの色が、瞳に浮かぶ。
「貴方に、束の間の夢を魅せてあげましょう」
では始めます、と合図をするように、柔らかに微笑む。
「どこへ行きたい? 優臣」
そう言う狐が、ハユンそのものに見えた。
“これからは夢をもって生きて”
あの手紙に書かれていたハユンの願い。――夢。
それは、今、目の前にいる狐が魅せるという、いつかは覚めてしまう夢とは違う。
ここまで来る道中、瞬きの合間に見た、新世界にせる夢は既に失ってしまった。
では、わたしは何を夢見る?
「……み」
「え?」
「海の見えるところを目指す」
なんとなく、ふと頭に浮かんだ。
ここに来る以前に暮らしていた……。
微かに思い出される、蒼天をそのまま転写したような、四方を海に囲まれた小さな島の景色。
常に潮の香りがして、暖かな風の吹く。
「いいわね、カジャ!」
そう言って、狐は指をパチリと鳴らした。
その様子はまるで、わたしがよく知るハユンそのものだった。
[つづく]
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