第4話 しっこく〜 Jet Black

堪え難いことがあると、小さな妄想に想いを馳せる。

その時、退廃を感じさせる音楽のような白昼夢を見た。


……このまま、身体からだと身体のどこかをつなげたまま。


寂れた秋風に舞う、夥しい数の桜の花びらの中で、ふたりはそれの餌食となって飲み込まれていく。


その瞬間訪れる、恍惚。

わたしたちは忘我の彼方へと旅立つ。


そして、暗転――。


誰もふたりを見つけることはできない。

永遠に、永久に。


◇◇◇


「優臣、優臣てば。 寝てしまってはつまらないわ」


彼女の軽いくちづけで、わたしは甦る。

わたしの息の根を止めるのも、蘇生させるのも、ハユンの思うがままだ。

わたしには、ハユンしかいないのだ。


「おーい、優臣」


ハユンと別れ、馬小屋の見えるあたりまで着いた時、デソンがわたしの名を呼んだ。

小屋の前にある猫の額ほどの小さな縁台に腰掛け、わたしに向かって手招きをしている。

辺りはすっかり日が落ちていた。


縁談の話を聞かされてからというもの……。


ハユンから少しでも離れようとすると、胃の中にどす黒い煙が立ち込めていくような、言いようもない気持ち悪さに苛まわれる。


だから、こんな時刻になるまで解放してやる事ができなかった。


「お前も一緒に一杯どうだ?

ここからだと、あの桜もなかなか風情のある眺めだよ」


龕灯がんとうの下から照らし上げるほのかな灯りが、ニヤつく初老の男の顔に不自然な影を作る。

それは少し滑稽なほど不気味に見えた。


――誰とも口を利きたくなかった。


しかし、不安に喘ぐ心は、酒の力でも借りなくてはすぐにでも息耐えてしまいそうな気がした。


重いからだを引きずるようにして、デソンの横に腰を下ろす。


「ああ、本当だ」


ほんのいっときの間に、薄闇は夜へと姿を変えていた。

高台にあるせいで、さっきまで自分のいた場所が、ぽっかりと浮かんだように見える。


やけに明るい月明かりが映し出す描いたように完璧なシルエットが、リアリティを失ってたたずむ。


ただ、季節を読み違えたに過ぎない。


そう主張しているかのように、人の思惑から遊離ゆうりしたところに立ち、淡々と花びらを撒き散らし続ける桜の木。


「あんなに怯えていたのに、今夜はなんだか妙に楽しそうだな」


そのようなわたしの嫌味など気にも止めない風情で、デソンはあっけらかんと答える。


「わしはもう、諦めたんじゃ! 今更天変地異がなんだ、もう十分生きたじゃねぇか、とな。人間、何につけても諦めが肝心なんだよ」


諦めが肝心。

その言葉は、わたしの感情には何も訴えかけない。


ただ、先ほどからどこからともなく聞こえてくる、カサッ、カサッという落ち葉を踏みしめる音と複雑に絡み合い、耳に詰まった水のように、恐ろしく不快な状態で鼓膜こまくまで押し込まれる。


「おい、優臣。おまえ、なんて顔してるんだ。

それこそ、まるで、世の終わりを憂いているかのようじゃないか。

まさか、あの鬼っ娘にフラれでもしたか?」


「……」


どう答えればよいか、どこまで話すべきか。


次の言葉を探して脳内を彷徨さまよっていると、並んで座るわたしたちの視線の先に、よりいっそう明度の低い影が、すう、と現れた。


「その声は――。そこにいるのは……デソンか?」


月明かりが、小さな老婆の枯れ枝のような輪郭を隈取っている。

それを見上げたデソンが、驚いた様子でおずおずと立ち上がる。


「……お、おばあ――まさか、おばあなのか?」


「やはり、デソンなんだな?」


老婆はよろよろと両手を伸ばした。

その仕草を見て、わたしはその老婆の目がほとんど見えていない事に気づく。


「おばあ……なんと、まあ!まだしぶとく生きていたのか」


毒舌な台詞とは裏腹に、それには涙声が入り混じり、二人は目の前で再会の抱擁をかわす。

そのシーンを、どこか遠くで感じながら柄杓ひしゃくを口元に運び、ずるずると音を立て、安酒を一気に吸い込んだ。


わたしとデソンに挟まれるようにちょこんと腰かけた老婆の横顔は、そばで見ると象の皮膚のような深い皺が幾重にも層となって刻まれ、推定年齢の見当がまるでつかない。


正直、ここまでの皺くちゃぶりは、これまで目にしたことがなかった。

なにせあと三月もすれば六十の大台に乗ろうというデソンに、おばあ、などと呼ばれている人物なのだ。


「で、なんで突然この屋敷に? 何の用だい?」


「呼ばれたんじゃ。祈祷をするためにな。

しかも突然ではない、もう何度かここへは足を運んでおる」


老婆の口ぶりは、見た目からはまったく予想できない程にしっかりしたものだった。


「おまえ、このあたりでいちばんの情報屋を銘打つわりには、そんなことも知らんのか」


デソンは、それはソンジュが生きてたころの話だ、わしはもう既に終わってる人間なのだ――と、自重気味に呟く。

わたしは、この男が死んだ主人を名前で呼ぶのを、このとき初めて耳にした。


「今となっちゃあ、それをネタに小銭を稼ぐ日々よ。

しかしまあ、祈祷とは――誰かの具合でも悪いのか?

おばあを呼ぶくらいだから事態は深刻そうだが…しかし、屋敷の連中はそんなそぶりは露ほども――」


「ああ……ここの跡取り息子がな。だから、公にはできんのだ」


「しゃべっちまっていいのかよ、そんなこと」


「馬鹿もん。これはおまえのための特別なはからいじゃ」


老婆は、ちろちろとわたしの様子を伺うデソンをよそに、話続ける。


「……あれはもう、そう長くは生きられまい」


それを聞いて、わたしの持っていた柄杓の柄が右手をするり、と離れた。


「おおう、冷たい」


老婆は小さな悲鳴をあげた。

足下に、微量だがわたしの飲みかけの酒がかかってしまった。


すぐにたもとにある手ぬぐいを差し出し、謝罪をするべきだろう。

頭ではわかっているものの、腕が鉛でできたように動かない。

いや、腕だけではない、あらゆる器官が金縛りにあったがごとくままならない。


毛穴という毛穴から嫌な汗が吹き出し、からだはぶるぶると震え、止めようと奥歯を噛み締めると、そこはカタカタカタカタと嫌な音をたてた。


ウヌが長くない――。


それを聞いた瞬間、わたしは自覚したのだ。

胃の中でぐるぐると巡る暗黒色をしたものの正体。

それが、殺意だったことに。


「優臣、おまえ……様子が変だぞ」


デソンが、わたしの異変にいちはやく気づくと、額に向けておもむろに手を伸ばす。


「熱があるぞ。 おい、ここは――あとはわしがいいようにしておくから先に部屋に戻れ、な?」


わたしは素直にその言葉に従い、やっとの思いで小さく会釈をすると、ふらふらとよろけながらその場を後にした。


[つづく]

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