暑けりゃ履かなきゃいいじゃん
村上夏樹
第1話 熱中症防止条例
六月初旬なのに、校舎の壁は昼前にはすでに灼けていて、触れば卵が焼けそうだった。
「今朝の気温はすでに34度。大変危険な状態です。引き続き『下着非着用の励行』を各自徹底するように」
ショートホームルームのスピーカーから、無機質な合成音声が流れる。
教室の誰もが反応しない。
もう慣れてしまったのだ、これが「日常」になってから三年目の夏。
「下着なんてもう、誰も履いてないしね」と、隣の席の亜季がぼそっと言った。机に突っ伏したまま、汗ばんだ額を腕で拭いながら。
「…履いてる子がいたら、報告するようにって先生言ってたよ」
そう答えたのは、教室の一番後ろで空を睨んでいた黒川だった。クラスの風紀委員で、風通しの悪い正論をいつも持ち込む。
「熱中症患者の99%が下着を着用していた――ってやつ?」
「事実だ。ニュースでやってた。学術誌にも載ってたって先生が」
私は窓際の席で、うっすら開けた窓から入り込む生ぬるい風を感じながら、その会話を聞き流していた。
―下着を履いてない。みんなが。
制服の下、何もつけない状態に、誰もが慣れたふりをしてるけど
正直言って私はまだ、どうしても慣れきれないでいた。
特に座るたびにスカートが腿に張りつく感触や、急に風が吹いたときの「無防備さ」が怖かった。
「二年D組の宮村、昨日の下校時に“履いてた”らしいよ。病院行ったんだって」
「マジ? 下着熱中症かよー。私も気をつけよ」
誰かの声に、教室が一瞬だけどよめく。
誰も本気で心配はしていない。
履いている者は退屈になるたびに話題の中心にされ、笑われるだけ。
生徒たちはすでに、「履いてる=非国民」みたいな空気に慣れきっていた。
「わたしたち、いつから下着ひとつで“危険人物”になったんだろうね」
私はつい、口をついて出た独り言に、周囲が一瞬静まったのを感じた。
でも、誰もそれ以上は突っ込んでこない。
暑さで思考が鈍るのは、もはや制度にとって都合が良すぎる。
昼休み。中庭のベンチで冷たいペットボトルを脇に抱えながら、私はひとりで俯いていた。
この制度―正しくは「国家熱中症対策特別緩和措置」―が導入されたのは、中学を卒業する頃だった。下着着用が健康被害につながる、というエセ科学的レポートが国会で通り、すぐに全国の教育現場に適用された。
「これは人権の問題ではありません。命を守るためです」
大臣のそんな言葉に、テレビは拍手を送っていた。
「君も履いてないよね?」
不意に声をかけられて顔を上げると、そこには風紀委員の黒川が立っていた。鋭い目つきで、まるで検査官のような視線を向けてくる。
「…履いてないよ」
言葉に詰まりながらもそう返すと、彼は頷いた。
「よかった。来週、ランダム着用検査が入るってさ」
「検査?」
「金属探知機みたいなのを使うんだって。“履いてるかどうか”は、すぐわかるようになってるらしい」
私は凍りついた。そんなものまで導入されたら―
「体温や熱中症リスクが高い場合は強制脱衣も認められてるらしいから気をつけてね。特に女子はトラウマになりやすいから」
彼はそれだけ言い残して立ち去った。
私は手にしていたペットボトルを強く握りしめた。汗と恐怖で、手が震えていた。
この国は、どこまで行くつもりなのだろう。
履くか履かないかを自分で決める自由さえ、もう私たちにはない
暑けりゃ履かなきゃいい―
それは“選べる”という前提があってこそ、初めて成り立つ言葉じゃないのか。
そんな当たり前のことすら、口に出せない時代に、私たちは生きている。
それなのに数多くの学校では女子がスカートを履くことを推奨すしている。
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