第5話「我々が白日の下に晒すべき聖域のはずです!」
第5話:監察官、陥落
警察署の廊下に一人、ぽつんと立たされ、俺は帰路につこうとしていた。もう関わるべきではない。そう頭では分かっているのに、足が動かなかった。
(…なんだったんだ、今日一日は…)
そう呟いて、最後にもう一度だけ取調室のドアに目をやった、その時だった。
「ですが!」
ドアの向こうから、あの真顔の刑事の、まだ諦めていない声が、くぐもって聞こえてきた。
俺は、吸い寄せられるようにドアに耳をつけた。
「ですが監察官!このままでは、我々は真実から目を背けることになります!警察官として、それは職務怠慢にあたるのではないでしょうか!真実は、たとえそれが被疑者のスカートの中に隠されていようとも、我々が白日の下に晒すべき聖域のはずです!」
(聖域!?何を言ってるんだこの人は!)
俺が心の中でツッコミを入れていると、監察官の冷静な声が聞こえた。
「…もういいと言っている。君は少し頭を冷やせ」
「いえ、冷やすべきは真実を恐れる心です!私は、この身がどうなろうとも、彼女が本当に『履いていない』のか、この目で確認するまで…!」
刑事の、あまりにもズレた正義感と、驚くべき諦めの悪さ。
その熱弁が続いた、その時だった。
監察官の声が、わずかに震えた。
「…くっ…」
(え?)
「…君は…、本気で…、それを…正義だと…?」
明らかに、声がおかしい。何かを必死にこらえているような、途切れ途切れの声。
そして、ついに。
「ぷっ…!ぶはははははは!だめだ!もう!あははははははは!」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、あのカミソリのように鋭かった監察官の、腹の底からの大爆笑だった。
俺は、我慢できずに、そっとドアを数ミリ開けて中を覗いた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
監察官は、腹を抱えて椅子に崩れ落ち、涙を流しながら笑い転げている。あの冷徹な面影はどこにもない。
「チッチッ」とダメ出しされていた真顔の刑事は、自分の正義がなぜか大ウケしている状況が理解できず、ポカンと立ち尽くしている。
その後ろで、後輩警官と「風になりたかった女」も、監察官のまさかの豹変につられて、再び笑いの渦に巻き込まれていた。
監察官は、ヒーヒー言いながら、涙を拭い、立ち尽くす刑事を指差した。
「あはは!き、君!最高だな!警察官の鑑だ!色んな意味で!あー、面白い!もういい!今日は解散!解散だ!」
「は、はぁ…?」
状況を飲み込めていない刑事が、間の抜けた返事をする。
「君のような逸材がまだ現場にいたとはな!あははは!よし、彼女は厳重注意で帰してやれ!話は終わりだ!」
もはや、事件の真相も、供述の裏付けも、どうでもよくなっていた。
この空間は、ただ、一人の諦めの悪い刑事と、それにツボってしまった監察官が作り出した、奇跡的な笑いに支配されていた。
俺は、そっとドアを閉めた。
中から聞こえてくる、まだ続く大爆笑を背に、俺は今度こそ、本当に警察署を後にした。
(笑)…なんじゃそりゃ。
新宿の交差点で、頭にパンティが降ってきたあの日。
俺は、日本の警察組織の、とんでもなく人間臭い一面を垣間見てしまった。
もう、怒りも、呆れも、何もかも通り越して、ただただ清々しい。
俺は、夜空を見上げて、今日一番の大きな声で笑った。
雑踏の中、誰も俺のことなど気にしていない。
きっと、明日からまた、普通の毎日が始まるだろう。
でも、もし、またあの真顔の刑事に会うことがあったなら。
その時は、一杯おごってやろう。
最高のエンターテインメントをありがとう、と。
そう心に誓った。(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます