『欲しかったんですか?』
志乃原七海
第1話「ふわり!ヒラヒラ?」
新宿交差点、見上げる歩道橋 ~確保~(「なんで降ってくるんですか?」の追求)
けたたましいサイレンの合間を縫って、新宿駅東口の広大な交差点に身を置いた。無数の人々、無数の車、そして空を覆い尽くすかのような高層ビル群。その全てが、俺の鼓膜を揺さぶる雑踏と混ざり合って、一種独特のエネルギーを放っていた。
「ふわり!ヒラヒラ?」
突然、俺の頭上に何かが被さった。まるで、巨大な鳥の羽が舞い降りてきたような、柔らかくて軽い感触。
「え?ちょっと(笑)」
思わず独り言が漏れる。何が起きたのか理解できないまま、俺は首を傾げた。
「ピンクの(笑)」
どうやら、それはピンク色の布らしい。しかも、なんだか妙に滑らかで、肌触りが良い。こんな都会のど真ん中で、一体何が起こっているんだ?
…いや、待てよ?
俺は、その「布」の感触をもう一度確かめようと、そっと指先で触れてみた。
…え?
…まさか…。
俺は、その奇妙な「落下物」の正体を確かめようと、ゆっくりと顔を上げた。
見上げた先、歩道橋の上。
そこには、一人の女性が立っていた。
彼女は、俺と目が合うと、悪戯っぽく笑った。その手には、先ほど俺の頭を包み込んだ、ピンク色の「何か」が、まだ風に揺れている。
…いや、スカーフじゃねーよ!
俺の頭を包み込んでいたのは、紛れもない…
「パンティ(笑)」
思わず、心の中で叫び出した。そして、その場にいる人間とは思えないほどの、破壊力のある笑いが、俺の喉の奥からこみ上げてくる。
彼女は、俺の動揺と、それを必死に抑えようとする顔を見て、さらに楽しそうに笑った。
「ごめんなさーい!落としちゃいましたー!」
彼女の声は、新宿の喧騒にかき消されそうになりながらも、俺の耳にはっきりと届いた。そして、その言葉と共に、俺の頭上に「降ってきた」ピンク色の「何か」の正体が、確信に変わった。
…が、その瞬間。
「おい!そこのお兄さん!」
「何やってんだ!早くどけ!」
「警察呼べ!」
物々しい足音と共に、数人の制服警官が歩道橋を駆け上がってきた。そして、あっという間に、俺と女性の間に割って入った。
「ちょっと、あなた。一体、どういう状況ですか?」
一人の警官が、俺に話しかけてくる。俺は、まだ頭に「ある」ピンク色の物体と、目の前の警官の間で、どう説明すればいいのか分からなかった。
「えっと、その…」
「なんでも、歩道橋から何かを落とした、という通報があったものですから」
警官は、女性を指差しながら言った。女性は、観念したように、肩をすくめた。
「…はい。私が落としました」
「…しかし、それがどうして、あなたの頭に?」
警官は、俺の頭に被さった「それ」に気づき、目を丸くした。
「…それは、その…」
女性が口ごもった瞬間、俺はもう、どうしようもない状況になっていることを悟った。
「…確保。」
警官の一人が、隣の警官に、小さくそう告げたのが聞こえた。
「おい、お前もだ。協力してもらうぞ」
別の警官が、俺の肩に手を置いた。
俺は、新宿の交差点の真ん中で、頭にパンティを乗せたまま、女性と共に、連行されようとしていた。
「…それにしても、お兄さん。」
連行されながら、俺に話しかけてきたのは、先ほど俺に肩を置いた、ちょっと鋭い目つきの刑事らしき警官だった。彼は、俺の頭に被さったピンク色の「それ」を、まっすぐに見つめていた。
「…欲しかったんですか?」
真顔で、そう言われた。
その瞬間、俺の喉の奥から、先ほど抑えきれなかった爆笑が、堰を切ったように溢れ出した。
「うははははは!くっ…!あはははは!違う!違うんです!違いますよ!」
俺は、涙を流しながら、必死に否定した。刑事は、そんな俺を、ただ真顔で見つめている。その真顔が、また俺の爆笑を誘う。
「あははは!違う!…あはは!何なんですか!それ!」
周りの通行人たちは、突然叫び出した俺を見て、奇妙なものを見る目で立ち止まった。女性も、呆然とした顔で俺を見ている。
「…「欲しかったんですか?」って…」
俺は、なんとか息を整え、刑事に向かって、まだ笑いをこらえながら言った。
「どういう意味ですか!?俺が!頭にパンティ被ったまま!それを!欲しかったって、どういう…!」
俺は、言おうとした言葉を、また込み上げてくる笑いによって遮られた。刑事は、依然として真顔だ。その顔に、微かな「?」が浮かんでいるように見えた。
「いや、あの…、お兄さんが、その…、拾ったものに、何か、こう…、個人的な思い入れでも…?」
刑事は、言葉を選びながら、それでも真顔を崩さずに言った。その言葉のチョイスが、また俺のツボに入った。
「個人的な思い入れ!?(爆笑) こんな、誰かの、えええええっと…、下着を、頭に被ってて、それが欲しいって、なるんですか!? 普通!! 普通、ならねぇだろ!!」
俺の叫び声は、新宿の雑踏に吸い込まれていく。それでも、俺の爆笑は止まらない。
「だって、あんまりにも、こう…、自然に、頭に…」
刑事は、まだ何か言いたげだったが、俺の勢いに押されたのか、言葉を詰まらせた。
「自然に、じゃないだろ! 偶然、だよ! 偶然! しかも、これ! これ、誰かの…」
俺は、頭の上の「それ」を指差そうとして、ふと、現実に引き戻された。ここで、さらに騒ぎを大きくするのはまずい。
「…とにかく! 俺は、これを欲しかったわけじゃ、断じてありません!」
俺は、最後にそう言い切った。
刑事は、俺の言葉を聞いて、ようやく少しだけ、顔の表情を崩した。それは、微かな、本当に微かな、苦笑いのようなものだったかもしれない。
「…そうですか。失礼しました」
そう言って、刑事は、俺から視線を外し、連行を促した。
俺は、まだ頭にパンティを被ったまま、女性と共に、パトカーへと向かう。
「…いや、でも、ちょっと待ってください!」
パトカーのドアを開けようとした、まさにその時。俺は、ふと、もっと根本的な疑問に突き当たった。
「そもそも! そもそもなんで、こんなものが! 降ってくるんですか!? 歩道橋の上から! そっちを追求しないのがおかしいだろ!」
俺は、思わず刑事に向かって叫んだ。
刑事は、運転席に座ろうとしていた手を止め、俺の方を振り返った。その顔には、先ほどの微かな苦笑いではなく、真面目な、いや、むしろ呆れたような表情が浮かんでいた。
「…それは、まあ、あの…、女性が、落とした、と…」
「落とした、で済む話じゃないでしょ! なんで、そんなものが、歩道橋の上にあったんですか! まさか、洗濯物干してたとか、そういう話ですか!?」
俺は、矢継ぎ早に質問を浴びせる。俺の頭の中は、もう「欲しかったんですか?」どころではなかった。もっと重大な、この事態の「原因」を突き止めたい衝動に駆られていた。
刑事は、困ったように眉をひそめた。
「…それについては、ですね…、まあ、女性から事情を聴取しますから」
「事情聴取!? 俺も、事情聴取する側だろ! 俺の頭に降ってきたんだぞ!」
俺の叫び声は、パトカーのドア越しに、さらに大きくなった。女性は、助手席に乗り込みながら、俺の方をちらりと見て、小さく首を振った。その表情は、まだどこか悪戯っぽかった。
(笑)…「なんで降ってくるんですか?」
俺は、パトカーの車内に押し込まれながら、最後の雄叫びを上げた。刑事の顔は、もう完全に「面倒くせぇ」という顔になっている。
(笑)…「俺が、これを欲しかった」とか、そういう次元じゃねぇんだよ!
俺の頭の中は、もはや、この「パンティ落下事件」の真相究明でいっぱいだった。
新宿の交差点は、相変わらず雑踏と喧騒に満ちていた。しかし、俺にとっては、その全てが、どこか遠い世界のことのように感じられた。俺の視界には、まだ、あの刑事の困った顔と、「なぜ、そこまで追求するのか」という呆れたような表情が、強烈に焼き付いていた。
確保。
俺の新宿での一日が、まさかこんな形で「確保」され、さらに事件の「真相」まで追求することになるとは。誰が予想できただろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます