第2章1 下賜情報


 朝の通勤ラッシュが始まろうとしていた。

 庶民区域の高架下。剥き出しの鉄骨が組まれた通路の上を、無数の人影が流れていく。靴音が絶え間なく響き、規則的な歩調がコンクリートに反響して、ひとつのリズムを刻んでいた。

 人々は誰もが無言で、流れの一部として歩いていた。背筋を伸ばし、視線を下げ、身体の角度さえ同調しているようだった。


 頭上には、ガルドのパブリックモニターが情報を淡々と吐き出していた。今日の文化推奨品、推奨音楽、推奨行動例。モニターの周囲には、青白い光の縁取りが施されており、それだけがこの灰色の空間に色を添えていた。

 その光すら、もはや誰も見上げようとはしなかった。仰ぎ見ることは、何かを期待していると誤解される。希望や興味は、情報管理社会において最も不安定な感情だった。


 モニターの一部には、今朝開示された“下賜情報”の告知映像が流れていた。

 ぼやけた音声で「今週の技術資本提供枠は、文化貴族委員会の推薦に基づき──」と繰り返されていたが、肝心の映像は途中で乱れ、黒いノイズに覆われた。

 周囲の誰も、それに気づいた様子はない。

 あるいは気づいていても、気づかないふりをしているだけだった。


 アルは人波の端を歩きながら、視線だけをHUDの挙動に張りつけていた。


「コマンド:ピーピング」


 周囲のデバイス等から流れる情報を盗み見る違法コマンド。投影されるのは個人行動予定、文化資本の加算ログ、そして今朝開示されたばかりの“下賜情報”一覧。


 表示されたログの羅列は、どれも似たり寄ったりだった。

 「通勤開始:07:01、文化貢献サロン参加予定、推奨朝食(発酵系)済」

 「詩吟投稿完了。タグ:#四行詩 #時雨の壁」

 「味覚文化投票提出:今週の納豆は粒感が良かった」


(どいつもこいつも“コマンド:ライフログ”……毎日よく飽きないな)


 かつてのSNSのような自己演出欲ですらなく、今はただ生き延びるための儀式だった。文化を消費し、記録を送り、反応を待つ。与えられたルールに従って、文化的なふりをする。それが、この街の正義であり、生存戦略だった。


 ひときわ派手な表示の端末には、文化推奨品である煎餅の試食レビュー動画が再生されていた。

 「はいどうもー!今週の文化ポイント、これで+2.1Cいけましたー!」

 笑顔を張り付けた青年が、焦げ目のついた煎餅をアップにしながら語っている。

 背景には、それを見つめる人波が無関心に流れていった。


 アルは鼻で笑った。これが文化国家の実態だ。


 そのとき、通りを横切る女の姿が視界の端に入った。

 ハル。控えめな服装に、真面目そうな顔つき。等級を真面目に積んでいる市民特有の、抑制された身のこなしだった。


(ああいうのが、“正しい市民”ってやつか)


 すれ違いざま、ハルの視線が一瞬だけアルをかすめたが、すぐに逸れた。当然だ。アルの見た目は、ただの五歳児。街を一人歩くのも珍しくない年齢層。


(このガキの外見で、誰が俺を疑う? だからこそ、こうして人の群れの中を歩ける)


 年齢固定化──文化貴族と呼ばれる一部の上級者が行う、合法の若年固定手術。その応用形。だが未成年への施術は違法とされる。成長の機会を奪う行為は人権侵害とみなされ、重罪が課される。


 つまり、アルの身体そのものが非合法な存在だった。


(軽くて便利? 冗談じゃない。物は持てないし、腕力もない。視線を集めすぎても駄目、集めなさすぎても不審。何より、この身体でできないことの多さは、計算外の不便さだ)


 関節の可動域も、かつての体に比べて縮まっている。肘が引っかかる。首の可動角が足りない。HUDの投影距離も微妙に調整が必要で、いまだに完璧なフィット感は得られていない。

 子供として扱われ、何も持っていないことが前提の存在。

 実体通貨も、権限も、社会的な信用もない。

 それでも彼には、知識と経験、そして何より、“情報”があった。


(拾うだけだ。こぼれ落ちたものを、少しばかりな)


 道の継ぎ目にしゃがみ込み、アルは靴紐がほどけたふりをして数秒停止した。遠くを行く保安ドローンの軌道、その反射光の周期、そして高架裏にできた一瞬の影の帯。全てが予定通りだった。


 高架の柱の陰に滑り込むと、アルは周囲の視線を確認した。

 監視ドローンのルート、パトロールの死角、そして人目。

 一瞬の間を突き、地面のマンホールを開けて身を滑り込ませる。


 みすぼらしい服装の子供が姿を消したところで、誰も気に留めやしない。群衆の目はいつでも正面だけを見ている。斜め下の存在には、関心もなければ、責任もない。


 そういう構造の中で、彼は今日も“仕事”をする。


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