『アン・シャーリーと私』

井上 優

第1話

アン・シャーリーと私


 夏の思い出は、いつも祖母と一緒にある。


 私が6年生の夏休み、初めて美ヶ原高原のペンションに連れていってもらった。ここは、祖母が幼い頃からの思い出の場所だ。連れて行ってもらったのには、深い理由があるらしい。

それまでの私といえばお転婆どころではなくて、遊び友達はほとんどが男の子だった。

5歳の夏から、兄の海水パンツ姿で魚獲りを始め、近くの海で真っ黒に日焼けした。Tシャツ姿でいると、完全に男の子に間違えられた。もちろん男の子とも、グーでケンカしていたし。

 でも、女の子らしくすることが、全然いやだったわけではない。小学校4年生からは、ちゃんとスカートをはいて学校へ通っていた。水色のスカートとピンクのリボンは、私のお気に入りだった。かわいい服を着ると、心もウキウキする。兄も、スカートをはいた私がまんざらでもなかったらしい。その前よりも、私に優しくなった。人に優しくされるのは、悪い気分じゃない。


 ところが、当時の私には衝撃的なことが起こった。今考えればたいしたことではなかった、と思えるのだけれども、スカートめくりをされたのだ。

 最初は「何が起こったんだろう? 」と、頭の中は真っ白だった。周りの子たちからはやされて、はじめて恥ずかしくなった。『女の子って弱いんだ』ということを、感じてしまった。

 それからは、以前の私に戻った。決してスカートなんかはかない。いつも真っ黒に日焼けして、男の子同然だった。強くなろうと決心した。スキをつくらないようにしようとした。女の子をかばうために、男の子ともサシで勝負した。

そんな私を、祖母が心配したのだ。


 これは転地療法とは言わないのだろうか? とにかく祖母は、環境を変えるところから着手した。海から高原へ。小学生の私にも、あまりに単純すぎる発想のように思われた。それから、花柄の入ったワンピース。女の子らしい下着。といってもその頃まだ私には、ほとんど胸の膨らみなんてなかったのだけれど。

それでも私にも意地があって、使い古した麦わら帽子だけは手放さなかった。蝉・カブトムシやザリガニそれに色んな色の魚たちの思い出、そしてもっと大事な友達との思い出がそこにつまっているように思われた。どうしても使い古しの麦わら帽子を手放さない私のガンコさにあきれた祖母は、その帽子に赤いリボンを結んだ。古い帽子がことさら可愛く見えた。その赤いリボンを、不思議な気持ちで気に入ったのを覚えている。


  *

 私の誕生日は、夏真っ盛りとなる前の7月25日だ。今年の誕生日プレゼントは、豪華な古めかしい装丁の『赤毛のアン』だった。女の子のバイブルという訳だろうか?私は、開いても見なかった。それよりも、高原の「鬼ヤンマ」というトンボに心を奪われていた。標本にして持ち帰れば、男友達はよだれを流して欲しがる。そして私は、ヒーローいやヒロインになれる。

 だけれども私は、その本にホコリが付く前に、手に取ることになる。


「海と違って、山はきたない日焼けになるのよ。」

といって、祖母は長袖のワンピースをあと2着用意していた。もちろん、UVケアなんてない頃のことだし、毎日大きな麦わら帽子もかぶせられた。風が吹くと、赤いリボンもゆれる。

 高原の避暑地だけあって、長袖のワンピースは全然暑苦しくなかった。むしろ肌寒くて、薄手の白いカーディガンを羽織ることもあった。

風景は、風が光るよう。『風薫る5月』という言葉があるけれど、高原の緑は初々しくて、生まれたての赤ちゃんのように元気だった。太陽に木々の葉を透かすと、碧い葉っぱ達が、はじらいの産声(うぶごえ)をあげそうだった。

 海しか知らなかった私には、驚きの連続だった。山がこんなに生命力に満ちているなんて。

 今までの習慣は、そう簡単には抜けない。セミの種類も、私の家の近くとは違った。形も鳴き方も。それより驚いたのは、2つ星のてんとう虫を発見したときだ。てんとう虫は星が7つと思い込んでいた私は、様々な事をいっぺんに考えた。友達を驚かせる方法から、絵日記から、「神様っていたずらなのかな?」とか。

「相変わらず、虫愛ずる姫君ですこと。」

 祖母にまた嫌みを言われた。けれど、私にも私の思いがある。ロングスカートに近いワンピースじゃ、思うように虫取りなんて出来ない。あぁ、やっぱりジーンズを隠し持ってくればよかったかな?


 その日は、祖母と美術館に行くことになっていた。私は秘かに、折りたたみ式の虫取り網を隠し持とうとしたけれど、当然のことながらばれてしまった。そして、絵なんて真面目に描いたことが無いのに、スケッチブックを持たされた。

「夏休みの課題のことは聞いてますよ。」が殺し文句だった。

「でも、水彩画が課題だよ。」

 反抗してみたが、クロッキー用の木炭を持たされた。あと2Bから4Bの、持ったことがない濃い鉛筆も。

「それをファッションにしても、いいのよ。」

祖母は意地悪そうに、でも優しい眼で微笑んだ。そんなこと出来るわけがないのを、知っているから。


 美術館は、割合混んでいた。

「ヨーロッパの美術館には、名画を模写する美術大学生が沢山いるのよ。」

 祖母が知った風にいう。

「あ、日本にもそこそこはいるのね、模写する学生さんて。」

 しばらく辺りを見廻したあとで

「あの子は、あなたと年が近そうね。お友達になりなさいよ。」

見ると、色白のいかにも繊細そうな少年だった。

祖母は無理ばかり言う。男の子と友達になるのは慣れているけれど、いきなり知らない子と友達になったことはない。物事には順序というものがある。祖母は知らないのだろうか?

それに、あんな軟弱そうな奴は友達にいない。きっとマザコンのヘナチョコ野郎だろう。


 祖母が、少年に声をかけた。私には、その神経がわからなかった。同年代くらいの子供は、一緒に遊ぶのが当然とでも思っているのだろうか? それとも、老年期特有の? 気軽に言った言葉は…

「この子に、絵の描き方を教えてあげてくれないかしら? あなたみたい優しそうな子は、後でお茶にも呼びたいしね。」

 少し困った顔をしたが、少年は屈託なく答えた。

「ええ、よろこんでお引き受けします。」

 少年は私の方を見てニヤリとし、その後真っ白な歯を見せて笑った。悪気はなさそう。

見れば見るほど、ひどく繊細で内向的そうだった。

 優しい目をしていた。日が当たると、キラキラと潤む。こんな綺麗な目は初めて見た。瞳の奥に吸い込まれてしまいそう。

「君には、会ったことがある気がするな。」

 少年はまた、屈託なく言った。ナンパという言葉も知っていたけれど、全然そんな感じじゃなかった。兄弟か従姉妹に声をかけるときの、親しみが当然な感じ。日本語が変かな? うまく言えない。それにしても、相手の少年もちょっと変だし。

 それでも、初めて会った男の子と口がきけないくらいは、私も真面目な女の子になっていた。自分でも知らないうちに。

「これ、見せてあげるよ。本当は自信ないけど。なんだか君には見てもらいたいんだ。」少年は、小さな言葉をはにかみながらついだ。

 その小さい言葉たちは、私の中で、だんだん大きくなっていった。

 それは深い緑色を含んだ、青色の表紙のデッサン帳だった。

ページをめくってゆく。ゆっくりと。

絵を見ていると、物語の世界に入ってゆく感覚が訪れた。それに、少年の絵が成長してゆく姿も。

クロッキー・デッサンの名画そのものの模写もあったけど、名画に出てくる動物の絵が多かった。その動物たちが、ページをめくるごとに、息づいてゆく。だんだん表情が出てきて、心が宿ってゆくよう。そして動物たちは草を食み、歩き出し、生き生きと疾走してゆく。

お母さんがおっぱいをあげている、子馬の絵。親子の愛情が、私の胸に忍び込み、広がった。

 そのとき、私は上手に言葉を使えなかった。

「上手なのね、まるで生きてるみたい。」

 少年は座って、デッサンをしているので、自然な上目づかいになった。

「まだまだ、だよ。本当に描きたいものがあるんだ。」

「でも、気に入ってくれた? 」

「うん、とっても。」

 少年は私が息もつかず、デッサン帳に見入っていて、最後には自然に涙を流してしまったのを、見守っていたのだろう。不思議な感覚。恥ずかしい。


「今度、秘密の場所に案内するよ。」

 少年は大きな瞳で言った。

「それには、秘密の扉を開ける鍵が必要なんだ。」

 少年が唇に人差し指をあてた。

「君、『赤毛のアン』は読んだことある? 」

 いきなりの質問で、ちょっと驚いたけど、ちゃんと答えた。

「誕生日プレゼントで、もらったばかり。」

「それじゃあ、話が早いな。読み終わったら、またここにおいでよ。」

 私は絵を描くことなんて、すっかり忘れていた


 家に帰ってから、あわててあの厚い本を部屋のスミから取り出した。そして私は不思議と『赤毛のアン』を、アン・シャーリィーに完全に感情移入してむさぼるように読んだ。本なんて、真剣に読んだことがなかったのに。


不可思議なほどワクワクし、続きが読みたくて、寝る時間が惜しかった。今までの人生でなかった体験だ。胸が熱く高鳴る。

 私は、アン・シャーリーと本の中で出会った。

 いや、出会ってしまった。


   *

「君はやっぱり、アン・シャーリーに出会った? 」

少年は、再会するなり、そう聞いた。

「本人に会える訳はないと思うけど。」

 戸惑いを隠しながら、なるべくゆっくりと、普通の答えをした。

「じゃあ、本のなかでは? 」

 ためらいも、ちゅうちょもなく、自然に言葉が出た。まるでだれかに言わされているように。

「出会ってしまったみたい。」

 自分でも驚くほど、素直だった。

「それが、秘密の花園の鍵さ。心の鍵だよ。」

 はにかんで、少年は笑った。


 聞いたことがある。女の子は心に愛を持ったり、心が透明になると、今まで見ていた同じ世界が、突然に別世界のように美しく見えるようになるって。恋も同じらしいけれど、これは恋ではない。

女の子の喜び、キラキラした感覚に浸っていた。風が透明に澄んで、髪を揺らす。草原の丘が、優しく香る。自分にそんな瞬間が訪れるなんて、思ってもみなかった。


アン・シャーリーは、グリーン・ゲイブルズでマシューとマリラと出会った頃から、その陶酔感に満ちたのだろう。


   *

気づくと、アン・シャーリーが、私の傍らの草原に座っていた。

やせっぽちでそばかすで赤い髪の毛の。色が抜けるほど白く、大きく澄んだ瞳の。でも、そんな特徴で彼女だとわかった訳ではない。私たちは、本当は初対面じゃないから。昨晩、本当に出会ったのだから。


私たち三人は、『きらめきの湖』へと向かった。高原のチトウと呼ばれる、池のような、小さな水溜り。でもそこは、どんな宝物よりも美しかった。見たことのない、地中海のエメラルド・グリーンよりも。

 湖面のさざ波は、妖精のため息で現れ、湖底に差す日差しは、ギリシャ神話のアポロンが放つ矢のように燃えていた。


『妖精の丘』では、優しいまどろみが私たちを迎え、高山植物の間に寝転ぶと、夢の中の夢か現実か分らない程、ゆったりとした甘い時間に包まれた。


『よろこびの白い道』は、花は咲き乱れていなかったけど、『歓喜』溢れる白樺の端正な並木だった。アンも『詩的な新しい名前』をずっと考えていた。


 少年が、突然、唐突にアンに質問した。今まで溜めていたものを一気に吐き出してしまうように。

「君はマシューのことをお父さんって呼ばなかったし、マリラのこともお母さんって呼ばなかったね」

「私、お父さんもお母さんも感じていたの、会っていたの。お祈りのときに。」

少年は、急に泣き出した。彼は母親を早くに亡くし、父親は病気で入院していることを話した。画家のお祖父さんに育てられているらしい。

「今日から、お祈りしてみるよ。君たちも一緒に祈ってくれる? 」

「もちろんよ。」

アンと私は同時に答えた。


 私は、素朴に訊いてしまった。

「あなたは、どこからきたの? どこに住んでいるの? 」

訊いた後で、少し後悔した。でもアンの答えはこうだった。

「私は、生きているわ。ただ、地上に生れ落ちなかったの。」

 少年がつぶやくような声で難しいことを言った。

「彼女は、想像・創造という『言葉』の中で生まれて、想像・創造という『言葉』の中で生き続けるんだ。神である言葉の胎内で。*」

 そうアン・シャーリーは、多くの少年・少女の心の中で生きている。あなたは天上で生まれ、本の中に生れ落ち、今も永遠の生命を得て天国で生きている。


 それから少年は、奇妙なことを私に言った。

「君はきっと、僕の、僕らのもとに生まれてくると信じているよ。」

 彼はそれ以来、姿を見せなくなった。私が泣かなかったと言ったら、嘘になる。


   *

 夏の終わりに、突然思い出したように、祖母は私の目を覗き(のぞき)込んだ。

「あなた、お祖父さんのこと、覚えているわけないわよね。」

「私が産まれる前に亡くなったのでしょう? お祖父さんはどんな人だったの? 」

「名前が売れ始めた、若手の画家だったの。太平洋戦争で従軍画家に徴兵されて、南方の硫黄島で戦死したのよ。」

 変わった人でね、戦地へ持って行ったたった一冊の本は『赤毛のアン』だったのよ。

出征の前の晩には、軍が支給した日本酒を飲んで、女性に生まれたかったと泣いていたわ。そうすれば、人の殺し合いを見なくて済んだって。

 それから、こうも言っていたわ。自分は絵画で生命を産みだそうと努力してきたけれど、本当に赤ちゃんを授かり産める女性は尊く、憧れるってね。


 それから、自慢そうにささやいた。

「お祖父さんはデートのとき、私(祖母)に沢山の絵を贈ってくれたわ。」

 お祖父さんの遺言を教えてあげるわ。こうよ。

「孫に、女の子が出来たら、この封筒を渡してくれ。」

 祖母はどこか遠いところを見る目をして、ため息をついた。

「あの少年は、お祖父さんだったのかもしれないわね。」


   *

 それから私は、42度の熱を出し、生死をさまよった。

 病気の後、私は何故か内向的になり、本と空想の世界に遊ぶようになった。大学は勿論、文学部を選んだ。


   *

祖父の想い、後世にアンシャーリィーに


「あなたへの贈り物は、あなたが18歳になったら渡すようにって、お祖父さんから託った(ことづかった)の。孫に女の子が産まれたら、18歳の誕生日にプレゼントするようにって。それまでは、絶対に開けるなって。南方へ徴兵される直前に渡されたわ。死を予感していたのよね、きっと。」

 それは祖父の遺品というよりも、祈りだったように思える。だって祖父と祖母の間には、私の父である男の子1人しかいなかったわけだし、孫に女の子が産まれるなんて決まっていたことではなかったのだから。

「私は、約束を守ったわ。」

 祖母は、涙を流した。


 古めかしく厚い、大きな封筒を開けると、沢山の絵が出てきた。見覚えのある風景。

それは、『あの夏の日』を絵にしたものだった。大人になってから、あの夏の日を思い出して描いたような、完成度の高い生命力に満ち溢れた絵だった。そこには、アン・シャーリィーとも私ともつかない少女の肖像画もたくさん入っていた。

祖父の残してくれた絵と、私の心の物語は呼応していた。私は、祖父の絵に文章をあてはめた。それは、とても簡単な作業だった。それもそのはず、「あの夏の日の思い出」が絵になっていたのだから。祖父と共有した、あの時間。

 そしてアン・シャーリーも、もちろん絵の中に生きていた。


私たちの絵本は、もうすぐ出版社から出版される予定になっている。祖父の絵を扱っていた画商さんが、小さな老舗の出版社を紹介してくれたのだ。


   *

 それから、私はアン・シャーリーとお話しするようになった。もちろん、心の中で。

 彼女が私の心にも、住んでくれるようになったのだ。

 それから私は、沢山の物語を書くようになった。だって彼女はとっても、おしゃべりだから。


   *

 祖母が白血病になった。白血病というと、憧れを抱く文学少女もいると聞く。でも実際は、そんな生易しいものではない。なにしろ薬と放射線治療づけだし、自分の血を他人の血液と入れ替えるのだ。拒絶反応を抑える為の、免疫抑制剤は体の抵抗力をも弱めどんなウィルス・細菌にも感染してしまう恐れが生じる。骨髄移植や末梢血幹細胞移植は、白血病などの病気によって、 正常な造血が行われなくなってしまった患者の造血幹細胞を、 健康な造血幹細胞と入れ替える(実際はドナーから採取された造血幹細胞を点滴静注する)ことにより、 造血機能を回復させる治療法だ。私がドナーになった。

 祖母は、目に見えてヤツレテしまった。


 祖母は、私がお化粧をしないと、嫌な顔をする。お化粧をしないと、私はまだ少年っぽいからだろう。

「女の子は、お化粧が出来るからいいわね。」

が口ぐせだ。

でもいくら美白しても、そばかすが消えない。子供の頃に夏の日でたっぷり焼いて、真っ黒だったせいだろう。祖母の病室で、いつもお化粧をしている訳にもいかない。付き添いで、簡易ベッドに泊まるのだし。

最近は、お化粧しないと自分自身の美意識が許さなくて、人前に出られないくらいなのだけれど。

 眠る前、祖母の額に『おやすみのキッス』をした。

「アン・シャーリーみたいね。やせっぽちで、そばかすで。」

祖母は憎まれ口をきいた。そんな元気があって、私はほっとした。

でもこれは、憎まれ口ではないのかも知れない。祖母の目は、優しく潤んでいた。そしてその3日後に、他界した。

 私はお通夜の晩、ずっと赤いリボンの麦わら帽子をかぶっていた。兄や父にどう言われても気にしなかった。

「あなたのお祖母(ばあ)様に、今会っているわ。もちろん、お祖父様も一緒よ。」

 アンが私にそうささやいた。


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