第19話 時災者達
圧をかける度に沈むキーの感触と、流れるように動く指。実際に打つのは初めてだというのに、自分はいつこの能力を覚えたのだろう、と思わずにはいられなかった。それは、普通の人間が母語の使用について感じる「いつから」という疑問と同質のものではないだろう。
キーボードの上で踊る指を視界に入れず、鈴は画面ばかりを見ていた。開いているのは大手の検索エンジン、入力は『露谷音 行方不明』。
ノンと共に20年前の失踪者を追い始めてから、ずっと考えていたことがある。
即ち、彼女のことも調べられるのではないか、ということだ。
無論、鈴とて勝手に人の過去を調べることが失礼であるとは承知している。という訳で実を言えばこれは勝手ではない。メールで彼女に連絡を取った上で、既読スルーが付いたことを確認し行っている。
どういうつもりなのかは本当に分からない。圭太の件から一日が経った。あなたのことを知りたいのだという気持ちがしっかり伝わったということでいいのだろうか。担当官代理として行う朝の面会、その前に目覚めてしまったのでここに来ている関係で昨日から彼女とは話していない。
彼女とのメールを回想する間に検索結果は出ていた。通信環境の優れた基地では、読み込みに息抜きの間を与えてくれない。
それらしいものがないかスクロールして、数ページ後に発見したのは2032年のネットニュースであった。掲載されたインタビューに出ているのは、どうやら露谷音の父親のようだ。
2026年の6月26日、金曜日、当時17歳だった彼女は姿を消した。
インタビューは、その目撃情報を呼びかけるもののようだった。
「女子、高生?」
貼り付けられた動画をクリックし画面に表示した写真は、たしかにノンのものであった。艶のある烏の羽のような黒髪に、白い肌。現在よりも幼さの残る目鼻立ちではあるものの、一目見ただけで美形だと分かる。雰囲気は似たところがあるが、刺々しさのない、高校生らしい落ち着き方であるように思われた。
途端、鈴の脳裏に一つの風景が描き出される。梅雨の真っ只中、雨の降り頻る外、怪しげな組織に誘拐されるブレザーを着た少女。その想像の中で、少女は鈴を守る隊員ではなく、普通に生活していただけの哀れな被害者だ。
無機質な情報の羅列が、あっという間に鈴を圧倒する。ニュースキャスターの声が遠くなっていくのを感じて、字幕を追うのに必死だった。
その日、アルバイトからの帰りであったノンは帰ってこなかった。成績優秀、部活動も熱心であったという真面目な彼女が夜遅くまで戻らないのを心配した父親が警察に通報、しかし6年経っても見つけられずにいる――。
『どんな形であっても、早く再会したいです。
画面で顔を覆いすすり泣く父親は、もう生きて会うことを諦めているようだった。
キャスターの補足で、
父親が記者に見せる姉妹二人の写真では、二人とも穏やかに笑っている。この写真を忘れることはないだろうなと鈴は思った。今の孤独とどうにも結びつかないほどの。基地では見せたことも、想像することさえもできなかった表情だった。
写真の中のノンは、現在と同じ顔立ちながら確かに『姉』という役割をこなしているように見える。仲は良好だったのだろう。妹と二人でカメラに向けるピースにしばらく動画を一時停止した。
全く証拠はないが、ノンは既にこのことを知っていると確信できた。関係のない自分でさえこう簡単に情報を仕入れることが出来たのだ、当事者である彼女が調べなかったはずがない。そして、この悲劇を知った彼女の心情が分からないほど鈴は薄情でなかった。
子供二人を失った父親、姉に再会することなく病死した妹、誘拐され、妹が亡くなったことを後から知った姉。
あぁ、なるほどと。鈴は腑に落ちる。
そりゃあ、元の時代に戻りたいだろう。帰って家族に会いたいだろう。GURDOさえなければと、あの組織を恨んだろう。彼女の思惑通りタイムトラベルが成功したら、あの笑みが、自分に向けられることはあるのだろうか。
高校生で誘拐されて、隊員になるのにどれだけの努力があったか。妹と微笑む彼女が、ああも虚無的で人を寄せ付けない冷たさを手に入れたのには絶望が故に違いない――その納得が、鈴のどこかを満足させた。多分、そこには彼女を知りたいという知識欲も邪険に扱われてきた不満もある。
だが、こんなニュース記事だけで彼女を知ったといってもよいのだろうか。圭太の話を聞いたときは、自分そのものがひっくり返される、自分の思考と真正面から向き合わされる感覚があった。彼の言葉が翻訳されずに脳に届いているような。
文字と映像の情報を浴びたところで、解釈しているのは結局自分で、自分のフィルターで彼女を見ているだけなのだと自覚させられる。まだ足りないのだ。
「もっと、あの人に近づかないとなぁ……」
いっそ直接聞いてみたいが、きっとまともに答えてはくれないのだろう。
パソコンを閉じようと天板に手をかけて、その平べったい甲が見えて、鈴はふと検索欄に先程と異なる単語を入力していた。
風林鈴の名前は、どうもインターネットに転がってはいないらしかった。逢坂から自分に関する何の情報も来ていないため察してはいたが、まさか本当に何もないとは。ノンの記事を見た直後、少し寂しいという気持ちを持ちつつ鈴は出口へ向かう。
監視係に声をかけるよりも前、別の声が鈴にかかった。
「そこの子、コンピュータールームから出るの?」
大人びた声に振り返る。真後ろに人が立っていたのを、鈴はこの時まで気付かなかった。
亜麻色の髪は染めたものなのだろう。だぼだぼしたカーゴパンツにスウェットパーカーと、なんとなくゆるそうなファッションは若者らしさを感じさせる。顔立ちからも二十代半ばといった年齢が伺える。が、疲労感の浮き出た、皺のある目じりが印象に残った。彼女は鈴の目を見て困ったように眉を落とす。
「あーいや、ね、君がさっき閉じたパソコン、電源落ちてなかったんだ。落とし方分かるかな」
「え! それはすみませんでした。その、教えてもらってもいいですか」
「もちろん。時災者でしょ君、ここのは多分元の時代のと違うから間違いやすいんだろうね。ちょっと来てみなさい」
手招きをされると、鈴はすぐに女性の後を付いていった。
彼女もパソコンを使っていたのだろう、足を止めたのは丁度鈴が先程座っていた所がよく見える席だった。脇にはプログラミング関連と思われる専門書が二冊置いてある。ここで鈴がパソコンを放置し去って行くのを見て、声をかけてくれたのだ。
入口の隊員からきちんと説明を受けておけばよかったな、と思いつつ鈴は女性の話に耳を傾けた。どことなく知的な雰囲気のある彼女の説明は印象に変わりなく、一回で理解することができた。
ありがとうございます、と女性に礼すると彼女は薄く笑う。こういう笑みが一番似合う人なんだろうなとなんとなく思った。この人が歯を見せて笑うのを想像するのは違和感がある。
「ここへ来たのは最近かな。基地にはもう慣れた?」
真っ暗になったパソコンを閉じながら彼女は聞いてきた。
その問いに一瞬否定しかけたのは、この間で様々なことを経験してきたからであろう。時災者の失踪事件に巻き込まれることも、隊員と協力して事件を解決しようとするのも通常は無いことだ。実際には基地に来てから一週間ちょっとなのだが。
「最近、ですね。まだ知らないことがたくさんあると思います……分かるものなのですか?」
「新しく入った人たちは、このコンピュータールームにこもりがちになるからね。君もそうなのかな」
「わたしは……少し違いますが。それにしても、へぇ」
こもりがちになる、という話に鈴の目の奥に曇りが広がる。
やはり自分がいなくなった後、その世界や家族がどうしているかは不安に思うものなのだろう。山奥で閉じ込められた自分達に、外界を確認する術はこの部屋にしかない。基地の外に行くには隊員達の許可が必要で、厳重な検閲が待っている。
鈴が知らなかった時災者の常識の一つだ。
「なにかあれば気軽に頼るといいよ。
「はい! 風林鈴です。こちらこそよろしくお願いします!」
頭一つ分背の高い彼女を鈴は見上げ、二人は握手する。
この閉鎖的な基地で知り合いが増えるのは良いことだ。
「フウリン……?」と困惑したように首を傾げられるのには気付かず、鈴は上機嫌でコンピュータールームを出て行った。
**********************
面会の時間になってもノンが来ることはなかった。
寮の玄関の前、靴を揃え床に正座で待ち構えてからもう20分は過ぎている。逢坂は5分程度の遅れならばしていたので、こういうものだと諦めきれなかったが、これはもう来ないというメッセージと受け取って良いのだろう。仕事に遅れてくるイメージはないが、鈴を無視して別の仕事をしているイメージはある。
メールも電話も付かないのは想定していたが、悲しいものは悲しい。しかも今回はコンピュータールームに居ないのを確認している。インターネットであなたのことを調べてもいいか、というメッセージには既読が付いているので、意図的であるのに間違いないのだ……嫌われているのだろうか。
仕方なく玄関から出て、廊下に彼女が居ないか確認する。成果は、別の部屋の担当官と目が合って会釈をしたことだけだった。
逢坂から借りた本でも読もうか、と自分の部屋へ足を向けた時、視界の隅にランニングをする白野の姿が入った。彼女の日課である。まとめた髪がしきりに揺れるのを眺め、鈴は一度自分の部屋に戻った後階段を下りて行った。
一階に下りた時、既に白野は走るのをやめクールダウンをとっていた。どうやら時災者用から隊員用までの寮を一周しているようで、濡らしたタオルを片手にした鈴は彼女の後方。
圭太の一件以降、鈴はさらに時災者達と関わらなければならないと思っていた。ノンだけでなく、彼らのことを知らなければ自分が時災者としてノンを理解することは難しい。
もっと、仲良くなりたい。
彼女の歩く足が止まるのを見計らい、その肩に手を置く。
「白野さんおはよ――」
「へ?」
ぼうっとした女性らしい声の、直後。
絶叫が返ってきた。ぎゃあとか、うわあでは済まされないほどの、喉に血でも滲んでいるような金切り声が朝の基地に響き渡る。軽く肩に置かれた手を彼女は熊にでも襲われた勢いで振り払い、鈴の手の甲に白い爪痕をつけながら鈴を押しのけた。
当然鈴の小さな体格をどうにかするのにそう大した力は必要なく、そのまま転びそうになるのを鈴はなんとか踏みこたえる。一方の白野は逃げ出そうと足を踏み切るも、もつれて地面に倒れていて、それがどこか滑稽に見えてしまった。
傷のついた己の手と、土埃をかぶり尻餅をつく白野を鈴は交互に見比べた。
今、何があった? 何か悪いことをしただろうか?
別に変なことはしていない。ただ挨拶をしただけで、それにスキンシップを加えてみただけであった。手に爪痕をつけられたことに対する怒りは全くないが、状況対する混乱は鈴の視界を点滅させる。
青い顔をした白野は、肺の空気を使い切ったのか肩で息をしていた。その見開かれた瞳に鈴は映っていなかった。
「し、白野さん……えっと、大丈夫、ですか?」
取り乱したのは向こうであると分かると、若干冷静になった鈴は彼女に呼びかけ続けた。次第に白野にも落ち着きが戻って来たようで、鈴の顔一点を凝視する。
「鈴……ちゃんで、いいよね。鈴ちゃんだよね?」
「は、はい。えぇ、わたしです。風林鈴です。あの……」
「うん、ごめんねさっき、手を傷つけちゃった。ちょっと絆創膏取りに行ってくるからそこで待ってて」
大丈夫です、という鈴の声を聞かず、白野はさっさと走って自分の寮へと戻ってしまった。訳も分からず立ち尽くしていると、数分ほどして彼女が帰ってくる。
消毒と絆創膏の処置をする間、鈴は何も言うことが出来なかった。何か、まずいことをしてしまったのは分かるが、その正体が分からない。そして、それを聞ける雰囲気でもなかった。
「お詫びにっていうか、後で誘おうと思っていたんだけど」
話題を切り替えるように、というかまさにその意図で彼女は口を開いた。
「今夜時災者達で交流会あるんだよね。鈴ちゃんも来ない?」
「交流会?」
「うん。寮の同じ階の数人、時災者達で仲良くなろうって会。場所は前に話したレストランなんだけど、どうだろ? 一緒に行ってみない?」
時災者と関わるのにぴったりな機会だ。
鈴は二つ返事で快諾し、白野もにこりと口角を上げた。
**********************
左肩に手を置かれた時、最初はそれが友達であると思った。
大学からの帰り道であった。いつものようにサークル活動を夜遅くまでやって、厚い雲に覆われた空の下、白野は駅へ続く小道を歩いていた。
駅前は繁華街になっていたが、夜のそこは治安が悪い。うまく遠回りできるその小道を使うことは、彼女のルーティンの一つであった。何か忘れ物でもしたかなと、呑気に考えたものである。
振り返って、そこに知らない人がいたから、今度はナンパかと思った。ランニングは時災者となってから日中のストレス緩和を目的として始めたものであるが、その前より白野のスタイルは人より優れていると自覚していたのだ。
結局、そんな生易しいものではなかったが。
いつの間にか近くに泊まっていた車からは、その容量よりも多そうな人数の男女がぞろぞろ現れた。白野一人のために彼らが用意したものである。抵抗する暇もなく車へと乗せられ、連れていかれた。
そこからの記憶はない。恐怖で失神したのか、あるいは何か薬でも飲まされたのか。ともかく、着いていたのはどこかの公園。誘拐犯の姿は無くなっていた。そこが未来であると知ったのは、隊員に拾われてからだ。
ただ、覚えているのは、肩を覆った冷たい感触だけなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます