第5話 The Encounter

 ノンが鈴を時災者と認める理由、発見されることと時災者であることの因果関係は理解出来ていない。

 聞いて粗が見つかってしまうのが怖いのかもしれない。それでも彼女に間違いなく時災者と保証され、その立場が守られている。たとえ過去の記憶がないとしても鈴には時災者という役柄が与えられている。


 世界と隔絶される疎外感から、鈴の身を軽くしたのは事実であった。

 

 先程と同じスピードでノンは再び炒飯を口に入れ始めた。会話を切り上げるつもりのようだ。

 鈴はその好意に感謝し、彼女に背を向けて寝ようと思った。

 

 と、狭い部屋で身じろぎをしたからか。腕がデスクの足に当たってしまう。あまり勢いよくぶつけたのではないが、衝撃でノート――ノンが先程残業と言って書いていたものだ――がデスクから落ちたようだ。

 

「あ、すみません。戻しておきますね」

 

 慌てて起き上がり落ちてしまったノートを拾う。床に開いてしまったが、折り目は付いていないことに安堵しデスクへ戻そうとして。

 

 わざと読もうとしたのではない。これは言い訳だが、目に映った情報を認識しようとしただけに過ぎなかった。国家機密を取り扱う隊員という職業柄、仕事に使うという彼女のノートを盗み見る真似をしようとはしていない。


 ただ、一瞬目に映ったそのページの中繰り返し登場する単語がつい最近目にしたもので。

 

『玉置』――。

 

 鈴はすぐにノートを畳み、デスクに戻した。どこにも違和感の無い動き、であったはず。少なくとも動揺は隠し通したはずだ。その単語の意味を理解したのは、ノートを置いた後なのだから。

 

 布団に体を預け、ノンの姿を横目に見る。疑う素振りはなく、彼女は黙々と炒飯を食べ続けている。その変わりない姿に先程見た単語について触れてみようかとも思った。

 一瞬見てしまっただけで他の文章をじっくり読んだ訳ではない。謝れば許してくれるかもしれない。彼女にとっては鈴に知られても構わない情報であり、禁忌でもなんでもないのではないか――。

 

 しかし、残業と称してまで集中していた、大事な事柄だ。鈴は話題に挙げるのはよして、瞼を閉じ早いところ忘れようと思った。だがどうしても廊下の表札で見た苗字が、怨念の憑りつくように脳を圧迫し続ける。

 

 玉置、それは一昨日に失踪したという時災者の名前であるはずだ。

 逢坂が出入りしていた寮部屋にかかっていた表札にそう書いてあったのだから間違いない。その名前がノンのノートの中にも登場するのは、逢坂と同じ隊員で括れば不思議ではないのだが、重要なのは彼女が失踪事件の担当ではないという点だ。


 逢坂は自分がその管轄であるからノンに鈴の通信機の監視という役目を預けた。同じ管轄である人間に負担をかける理由はない。このためノンは玉置という名の時災者を追う必要のある隊員ではないはず。

 

 まさか、独自に捜査をしているのか?

 

 そんなことが過ったが、鈴はいやいやと考え直す。いくら仕事熱心な隊員といっても、違う管轄の事件にまで踏み込むことはないだろう。何か別の形で、ノンの担当する仕事と繋がっているだけに過ぎないはずだ。

 

 そう考えても鈴の心は晴れなかった。僅かに見えたノートに書きこまれた文章、筆圧が強い訳でも埋め尽くされていたという訳でもないのに、妙な執着心なんてものを感じるはずがない。

 

 ただ、玉置という名が酷く不気味に思えて仕方がない。


 それは名前だけではなく、事件という1つのまとまりから色々な形で鈴の目の前に現れてきた。事情聴取に始まり、ノンと関わる理由になり、自分の寮へ行く廊下でさえ感じられるその気配に、早くその時災者が見つかればいいと本気で鈴は思った。

 無論心配から来る願いではない。鈴を取り巻く奇妙な状況の靄が消えることを、切実に彼女は願った。


 **********************


 あれだけ悩んでいたというのに、翌朝になればすっかりその曇りは失せていた。

 

 カーテンは開けられておらず、電気の付いていない部屋は昨夜以上に暗い。窓からほんの少し漏れる光を頼りにLEDを付け、部屋にノンの姿が無いことに気付いた。一瞬焦ったが、基地の仕事場へ赴いたのだと理解し取り乱すことはなかった。職業不定の鈴とは違い、ノンには帰還協力隊の仕事がある――いや。

 

 鈴は唐突に二日前の己の発言を思い返していた。たしか、今日は日曜のはずだ。多くの隊員の数少ない休日であり、業務をする必要はないはず。無論全ての隊員が、とすれば基地が回らないため割り振り自体はあるし、身体を訛らせぬための訓練も用意されているものの、基本的に仕事は軽くなるはずだ。

 

 となれば散歩だろうか。そんな気楽なことをするイメージはないが、それは偏見というものだ。会って数日の人柄を判断できる程自分の目を鈴は信じていない、ひとまずノンは散歩に行ったと考えることにした。

 

 朝食を摂りたいが、勝手にまた冷蔵庫を漁るのは失礼にも程がある。かといって家主も居ないまま、鍵をかけず自分の寮へと戻るのは怖い。特にあれだけ厳重に部屋の鍵をかけるノンのことだ、鈴がふらっと部屋を出るのも心配かもしれない。


 そのため鈴は特に何かをすることもなく、部屋のカーテンを開け、窓から基地の様子を眺めていた。


 塀で囲まれた中に多くの建物が立つ様は、この五日間見てきたものと変わらない。時災者用の寮に、隊員達の通常業務に使う庁舎やグラウンド、駐車場からレストランや小売店まで生活に必要なものがあらかた揃った場所。

 この風景が全体像でもないのに、まだ行っていない場所がある程この基地は広いことに驚かされた。

 

 国家機密も記憶喪失も最早関係ない、鈴はこの生活に満足していた。

 食事は美味しいし逢坂から借りる本は面白い。それらはすべて、恐らく鈴の元居た時代には無かったものなのだろう。時代が進めば進むほど、技術は発展し人々の生活は豊かになる、これは確かなことだ。

 

 きっと今の鈴は、記憶を失う前の鈴よりも快適で充実した生活をしているだろう。そう言い切れる自信が鈴にはあった。

 

 チャイムが狭い部屋の中を響いた。

 やっとノンが来てくれた、と窓から手を放すも束の間、その可能性はないと踏みとどまる。自分の部屋に入るのにチャイムを鳴らす必要などない、となればノンを訪ねてきた何者かだが、鈴が代わりに出ていいものか。

 

 おずおずとドアスコープを覗くと、丸いレンズに映ったのは二十代前半くらいと思われる、若い女性だった。


 青を基調とした服装は洗練されており、季節感を意識させる華やかな佇まいをしている。覇気の強い顔つきに明るい雰囲気があり、眉山ははっきり。いかにも気の強そうな姿の彼女は、都会の中心を歩いてきた帰り道のようであった。

 

 隊服は着ていないものの、ノンを訪ねてくるということは隊員の一人なのだろうか。今日は日曜であることを考えると、ノンを遊びに誘ってきたのかもしれない。

 そうでなくとも、ドアスコープ越しに見る女性の機嫌は良さそうで、ノンとの関係が悪くないことを示している。彼女に友人がいたということに驚きながら、あの不愛想な人に友人と認められるだけの人とはどんな人なのだろうと好奇心も湧いてきた。

 

 結果、鈴は玄関の扉を開けることにした。

 

 中から出てきたのがノンではない人物であるのに気付くと、女性は途端訝しんだ表情を見せる。

 

「あなた、誰? ノンちゃんは?」

 

 やはりノンの友人だったのか。ちゃん付けという馴れ馴れしい呼称に衝撃を受けつつ、簡素な説明を鈴は心がける。

 

「わたしはノンさんに面倒を見てもらっている時災者です。ノンさんは今部屋にはいません。いつ帰るかも分かりませんが、伝言があれば聞きます」

「それなら食堂の方かしらね。そう、時間が合わなかったか」

「食堂?」

 

 女性は不満ながら納得したように頷く。どうやら顔に感情が出るタイプのようだ。

 

 彼女の漏らした単語に聞き覚えはあった。基地の端の方にある、その名の通り食事施設のことを言っているのだろう。行ったことはないものの、隊員達がそこを利用することは知っている。逢坂が今日の飯は旨かったなどと話題のない時に振ってくるのだ。


 食堂に行ったということは、彼女は少なくとも、朝食はそこで摂っているのだろうか。毎食冷凍飯でないことに安堵すると同時、そんな事情まで知っている女性に僅かながら、もやもやとした心が芽生えるのが分かった。

 

「あなた、ノンさんとどんな関係なんですか」

 

 聞いてから、しまったと思った。敵意のにじみ出た声は目の前の相手に伝わったのだろう、女性は厄介そうにこちらを見て首を傾けた。

 

「関係って、友達よ。大親友……そんなに疑わなくてもいいわよ、鈴ちゃん」

 

 わざとらしく女性が低く笑うのを見て、鈴は反射的に靴も履かずに踏み込もうとした。

 

 何故、この女性は自分の名前を知っているのか。たった五日前に来たばかりの時災者の名を、わざわざ覚える必要はない。底知れぬ、どこから来るのかも分からぬ恐怖が、鈴を襲う。

 

 せめて名前を聞かなければならない。鈴はこの女性を信じようとは思わなかった、それどころか、ノンにとって障害となる人物なのではないかとすら思う敵対心が育っていた。

 自分でも信じられぬほど、初対面ながら彼女のことを好いていない。しかしこの場において不安は一切なく、自分の直感を信じ切れた。


 しかし彼女が口を開くよりも前に、女性はため息交じりにこう言った。

 

「伝言は必要ないわ。また出向く。それじゃあね」

 

 降って湧いたものは、行きと同じように驚くほどすんなり帰って行った。

 一体なんだったのだろう、と。鈴は女性が過ぎ去るのを眺めながら思った。ノンには報告すべきだろうが、どのように説明すればよいのか。

 

 だが、そんな心配はいらなくなった。


 廊下の奥、軍帽を深く被った黒髪の隊員が佇んでいた。

 体を支配していた緊張感がほぐれ、肩の力が抜けるのを感じる。彼女が帰ってきたことが、いつになく喜ばしかった。その名前を呼ぼうとして、鈴はノンの様子がおかしいことに気付いた。


 彼女は扉から顔を出す鈴には目もくれず、目の前に佇む身なりのいい女性を見て、目を丸くしていた。

 

「あぁノンちゃん、来てくれたの。よかったわ、来た甲斐がある」

 

 女性はそれまでの不機嫌が消し飛んだように顔を――鈴には見えないが、そう感じ取れるほど――明るくして喜びを露わにした。胸の前に手で結ぶ様は、生き別れの妹に再会する感動的な場面を演じているように見える。

 

 対照的にノンは衝撃を隠せていないようだった。女性と再会を分かち合う、というような雰囲気は感じられず、ただ女性がここに立つこと自体を信じられずにいるような、あるいは鈴よりも敵意を出した顔に好意は見られない。

 逢坂に対しても、鈴に対しても無関心を貫いていた彼女のはっきりした敵意は、一体何のためなのか。

 

 鈴の額にはいつのまにか薄く汗がにじんでいた。何も起こってはいない、起こっていないのにその現場は一触即発に思えて仕方がない。酷く気を遣わねばならないような場の空気は、呟いたノンの一言で確信となった。

 

「――玉置さん」

 

 それは、五日前に失踪したという時災者の名前。

 行方不明、誘拐、様々な言葉と可能性で鈴の前に現れ、不吉な香りを漂わせていたもの。

 

 失踪者が、廊下に立っていた。

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