第35話「憎悪の刃」


 碧玉の金色の美貌は、確かに黒曜に劣らない。だが、その奥に潜む冷酷さが、鈴音の魂を凍らせる。彼はうるわしい悪魔そのものだった。


 焔が無言のまま碧玉を睨みつけている。その金の瞳には、明らかな警戒の色が宿っていた。


「兄上のご様子を案じて参りました」


 偽善に満ちた言葉が、毒の花のように室内に散った。その瞬間、鈴音は悟った。この男は最初から全てを知っている。そして、それを隠そうともしない。完全に私たちを見下しているのだ。


「しばらく人間界を見て回っておりました」


 碧玉が、にいっとゾッとするような微笑みで続けた。


「愚かで弱くみにくい、そんな人間に心を許すとは……やはり兄上の血は異質としか思えません」


 その言葉に、鈴音の胸に怒りが沸き上がった。しかし、同時に黒曜への哀しみを覚えた。家族から、このような言葉を浴びせられる彼の心の痛みを思うと、胸が締めつけられた。


「……っ!」


 焔の表情が険しくなる。主君への侮辱を黙って聞いていられるはずがない。だが外交上の配慮から、じっと耐えている様子だった。


「人間界は危険な場所ですね」


「異形の血筋では、反発も強いでしょうから。いつ何が起こるか分からないと心配しております」


 碧玉の声に、暗い響きが混じる。偽善的な笑顔で、実の兄への『暗殺』を匂わせる不気味さに、鈴音の背筋が凍った。


「相変わらず気味の悪い髪色ですね、兄上」


 碧玉の言葉に、鈴音は思わず息を呑んだ。黒曜の麗しい白銀の髪を、そのように呼ぶなんて。


「その白い髪を見るたび、母上がどれほど嘆かれたか思い出します」


 黒曜の表情が僅かに強張るのを、鈴音は見逃さなかった。その痛みが、まるで自分のもののように感じられる。


「……お前の話は、それだけか」


 黒曜が冷ややかに言い放つ。表面的には冷静だが、握られた拳に内心の動揺が表れていた。


「なぜあなたが第一皇子なのか、いまだに理解できません」


 皇位継承への挑戦状とも取れる言葉に、室内の緊張が極限まで高まった。鈴音は拳を握りしめる。


 黒曜は表面上は冷静を保っていたが、その眼差しの底に陰が揺れる。彼の内心の怒りが、痛いほど伝わってくる。焔が黒曜を支えるような視線を送っているのも、鈴音の目には映っていた。


 碧玉は満足そうな笑みを浮かべると、護衛を連れて悠然と退室した。その後ろ姿からは、完全な勝利の確信が漂っている。


 護衛の中で際立って不気味だったのは、爬虫類を思わせる冷たい目をした鬼だった。扉際で一瞬立ち止まると、まるで『蛇』が獲物を記憶に刻み込むかのように部屋の中の人々を見回してから、影のように消えていった。


 扉が静かに閉まる音が、室内に響いた。


 完全に閉ざされると、呪縛が解けたかのように重い沈黙が室内を覆った。誰もが言葉を失い、ただ碧玉の言葉の重みを噛みしめていた。


「あれは……完全な宣戦布告ですね」


 最初に口を開いたのは焔だった。彼女の声は普段の冷静さを保っているが、その奥に隠しきれない怒りが滲んでいる。


「想像以上に危険な状況です」


 山崎も憂慮に満ちた表情を見せながら、深くため息をついた。


 鈴音は黒曜を見つめていた。彼の横顔には、表面上の冷静さの下に深い孤独感が漂っている。それが冷たい風のように室内の空気を通して伝わってくる。


 家族からも命を狙われるという現実。それがどれほど彼の心を傷つけているか。


 黒曜は窓の向こうを見つめながら、静かに口を開いた。


「弟も、そして反対勢力も、本気で私を排除するつもりか」


 その声には失望と諦めが混じっていた。しかし次の瞬間、彼の瞳に強い光が宿る。


「この交渉を成功させることが、唯一の道だ」


 黒曜の声に、静かな怒りと揺るぎない決意が込められていた。彼は振り返ると、室内の全員を見回した。


 鈴音の胸に、熱い思いが湧き上がった。黒曜さまを守りたい。この人を一人にしてはいけない。その気持ちにいつわりは微塵もない。


「直ちに、警備を強化する必要があります」


 山崎が実務的な話に切り替えながら言った。彼の表情は既に次の対策を練り始めている。


「私も部下への指示を強めなくては」


 焔も頷く。彼女の動作は迅速で、既に具体的な計画を立てているようだった。


 鈴音は決意を込めて一歩前に出た。


「私も……黒曜さまを全力で、お守りします」


 その言葉には個人的な想い以上に、護衛としての使命感が現れていた。


 黒曜の紫の瞳が鈴音を見つめた。一瞬だが、そこに安堵の色が浮かんだ。自分を理解してくれる人がいることへの安心感のように。


「碧玉の言動から察するに、近いうちに何かを起こす気か」


 焔が警告するように言った。彼女の経験からくる直感が、危険の接近を告げている。


 山崎も同意しながら頷いた。彼も嵐の前の静けさを感じ取っていた。

 室内に集まった一同の緊張した面持ちが、確実に迫り来る危機を物語っていた。






 鈴音はちび虎を呼んだ。月明かりが窓から差し込む中、小さな白い虎は理解したように頷く。


「ちび虎、お願いがあるの。碧玉さまの後をつけて、どこに向かうのか確かめてほしい」


「おう、任せとけ。あの嫌な匂いのする奴だろ?」





 ちび虎は、碧玉の後を追った。第二皇子は護衛を連れて、迎賓館から黒塗りの馬車で静かに出て行く。


 石畳の上を音もなく進むちび虎。小さな体を生かし、街角の影から影へと移動しながら馬車を追跡していく。


 ちび虎は息を殺し、建物の陰から陰へと飛び移りながら追跡を続けた。


 角を曲がったところで、馬車が突然止まった。ちび虎の心臓が跳ね上がった。


「バレたか――?」

 しかし、馬車はしばらく停止した後、再び静かに動き出した。


 やがて馬車は錦苑の奥へと向かった。


 華族たちの居住地が集まる高級住宅街の、迎賓館からは離れた一角で、馬車はある屋敷の前で止まった。


 重厚な門構えの邸宅。門柱には立派な家紋が刻まれている。ちび虎は上空から目を凝らした。距離があるため詳細は見えなかったが――。


「――この家紋には見覚えがあるぞ。鈴音と一緒に何度も行った宮中で見たことがある」


 高雪家の家紋だった。帝の側近中の側近、侍従長。


 碧玉が馬車から降りた。そして護衛と共に、そのまま屋敷の中へと入っていった。まるで何度も訪れたことがあるかのように、迷いなく。


 ちび虎はさらに近づこうと屋根から飛び降りた。その時――。


「ずいぶん可愛らしい尾行ですね」


 振り返ると、碧玉が微笑みながら目の前に立っていた。


「いつの間に――?」 

 ちび虎は全身の毛を逆立てた。


「バレてる……?!いつから気づいてたんだ!」


「最初からですよ」

「小さな式神の気配など、お見通しです。それに……」


「構いませんよ。どうせすぐに分かることですから」

 碧玉の笑みは深く、そして涼やかに言った。


「むしろ、兄上にも私の居場所を知っておいていただいた方がよろしいでしょう」

 

 ちび虎は、慌てて迎賓館へ駆け戻った。






 鈴音は夜空を見上げながら、来たるべき戦いへの覚悟を固めていた。黒曜様を守り抜く。それが、今の自分にできる唯一のことだった。


 夜風が頬を撫でる中、小さな白い影が舞い戻ってきた。鈴音の表情が引き締まる。


「やべぇぞ、鈴音! 碧玉の居所を突き止めた!」


 敵はすでに動き始めている。もはや一刻の猶予もない。

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