9章 溢れ出す想い
第26話「肌に残る昨夜の思い出」
鈴音は、鏡の前で髪を結いながら、昨夜の出来事を思い返していた。黒曜の胸に身を預けた時の温かさ、彼の心臓の早い鼓動が胸の奥で静かに響いている。
(あの時の感覚が、まだ肌に残っているような気がする)
黒曜の腕に包まれた安らぎ、耳元で聞こえた低い声音。――全てが明け方に見た夢のように、鮮明に記憶に刻まれていた。
鈴音は文化交流会のために、いつもの袴ではなく正装の着物に身を包んでいた。
今日は陰陽師としての護衛の任務を一旦離れ、黒曜に人間界の文化を案内するという特別な役割を担っている。
薄緑色の地に桜の花が織り込まれた着物。帯は深い緑色を選び、黒髪は丁寧に結い上げた。鏡に映る自分の姿を見つめながら、鈴音は少し緊張していた。
ふと手が止まる。自分の頬が、微かに赤らんでいることに気づいた。
(昨夜のことを思い出すだけで、こんなにも胸が高鳴るなんて)
今日、黒曜さまとお会いした時、どんな風になるのだろう。昨夜と同じように話すことができるのだろうか。
――それとも、あの特別な時間は夢だったのだろうか。
黒曜からの呼び出しを受けて、執務室へ向かう。着物の帯の結びを確認しながら、鈴音の胸は期待と不安で静かに高鳴っていた。指先が微かに震えているのに気づき、深呼吸をして心を落ち着かせる。
扉の前で一息をつく。軽くノックをする。
「失礼いたします」
執務室に入ると、黒曜が窓辺に立っていた。朝の光を受けて、白銀の髪が輝いている。振り返った紫の宝石のような瞳が鈴音を見つめた。
「おはよう、鈴音」
声にいつもとは違う温かさがある。二人の視線が合った時、特別な空気が間に流れていた。
昨夜の抱擁を思い出し、鈴音の心が静かに震える。言葉にならない想いが、空間を満たしていた。
「おはようございます、黒曜さま」
昨夜以上の親しみを込めて挨拶する。声に微かな震えが混じったのが、自分でも分かった。
「昨夜はよく眠れたか?」
その問いかけに込められた優しさ。私の昨夜のことを気にかけてくださっている。その事実だけで鈴音の胸が温かくなる。
「はい……おかげさまで」
本当は黒曜のことを考えてなかなか眠れなかったのだが、そんなことは言えない。彼の表情が、わずかに柔らかくなったのを感じ取った。
彼の前に立った鈴音は、黒曜の視線を全身に感じていた。この色の着物を選んだのは、正解だったのだろうか。髪の結い方はおかしくないだろうか、そんな不安が頭をよぎる。
黒曜の瞳がわずかに見開かれた。
「その装い……よく似合っている」
短い言葉だったが、その声音には特別な響きがあった。鈴音は安堵と共に、胸の奥で小さな喜びが花開くのを感じた。
間もなく山崎が執務室に現れた。その足取りが止まり、鈴音の美しい装いに目をとめた。
「見事だな、星川」
普段は厳格な表情を崩さない山崎が、微笑みを浮かべる。鈴音が笑顔を返した。
黒曜がそのとき口を開いた。執務机の前から一歩前に出て、正式な提案の姿勢を取る。
「鈴音、一つ頼みがある」
黒曜の表情が、真剣になった。執務机の前に立つ彼の姿に威厳と優しさが同居している。
「はい、何でしょうか」
頼み、と言われた鈴音の心が緊張で引き締まった。彼の次の言葉を待つ。
「昨日の件で、君の実力は十分に証明された。それで私から提案をしたい」
「君には現在の全体警備の責任者ではなく、今後はより私の近くで、護衛を担当してもらいたいのだ」
鈴音の目が驚きで、見開かれる。近くでの護衛……それはつまり、彼個人の警備ということだろうか。思いもよらない言葉だった。
――自分が黒曜さまの専属護衛に?
「私が……ですか?」
「君なら信頼できる。それに」
声が少し穏やかになった。紫水晶の瞳が、温かな光を宿している。
「君が側にいてくれる方が、私も安心していられる」
胸が熱くなった。鈴音の胸に任務への誇りが込み上げてくる。黒曜さまに信頼していただけている。その事実が、全身を震わせるほどの感動を呼び起こした。
「山崎殿、どうだろうか」
陰陽師たちを束ねる現場責任者の山崎に、黒曜は問いかける。山崎も姿勢を正した。
「護衛体制についてだ。彼女には今後、私の近辺の護衛を専任で担当してもらいたい」
「その資格は、十分にあると思うのだが」
山崎の表情が明るくなる。鬼族の皇子が自らのそばに、人間の陰陽師を護衛として希望している。それは人間への、そして鈴音への最大限の信頼の証だった。陰陽寮にとってもこれ以上ない名誉なことだ。
「それは我々にとっても光栄なことです、黒曜皇子殿」
「むしろ私からも推薦致します。彼女なら、必ず自らの使命をやり遂げてくれるでしょう」
「星川、どうだ?」
黒曜からの要望と、山崎の推薦に鈴音の胸の奥で歓喜が踊って、その喉が詰まりそうになった。
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