8章 抱きしめられた夜

第24話「月光の馬車と黒曜の温もり」


 馬車の列が、夜の帳に包まれた帝都の街を静かに進んでいく。提灯の灯りが石畳に揺れる影を落とし、晩餐会の華やかさとは対照的な静寂が辺りを支配していた。


 宮中晩餐会の会場から馬車へと向かう道で、鈴音は茫然と立ち尽くしていた。


 姉小路が、護送車で連行されていく後ろ姿を見送りながら、胸の奥に重いものが沈んでいく。


 同じ陰陽師として働いていた人が、憎悪を自分に向けていたなんて。あの冷たい眼差し、怒りに歪んだ表情――全てが鈴音の心を深く傷つけていた。


「鈴音」


 黒曜の声に足を止めた。


 振り返ると、鬼族の第一皇子が静かに佇んでいる。月光に照らされた白銀の髪が夜闇に浮かび上がり、紫水晶の瞳が神秘的な光を宿していた。まさに幽玄の美を体現した姿だった。


「――今夜は共に戦った。ならば、共に帰ろう」


 焔が歩み寄ってきた。普段の凛とした表情に、心配の色が浮かんでいる。


「でも、私は……」


「鈴音、あなた顔が真っ青よ。一人でいるより、黒曜さまのそばにいた方が安心でしょ」


 焔の指摘で、鈴音は自分の状態に気づく。先ほどからずっと手の震えが止まらない。


「黒曜さまがそう仰ってるんだから、素直に甘えなさい。私は別の馬車で帰るから」


 金髪の女戦士は、それを言い残すとさっさと立ち去ってしまった。


 鈴音は恐縮しながらも、皇子の馬車に足を向けた。御者が恭しく扉を開ける。向かい合う席に座ると、扉が静かに閉められる。


 焔の気遣いで、二人だけの空間が作られていた。


 馬車が動き始めても、鈴音は膝の上で握りしめた手を見つめたまま、一言も発しなかった。指先が小さく震えている。窓の外を流れる街灯の光が、彼女の頬を薄く照らしては過ぎ去っていく。


 車輪の音だけが、静寂の中に響いていた。


 黒曜は静かに鈴音を見つめていた。普段の凛とした表情が影を落とし、まるで傷ついた小鳥を見守る人のような優しさを湛えている。


 しばらくの沈黙の後、黒曜が口を開いた。


「疲れているようだが、大丈夫か?」

 

 鈴音は顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまう。喉の奥がきゅっと締まって、言葉が出てこない。

 しばらくして鈴音はゆっくりと顔を上げた。月明かりの中で、黒曜の紫の瞳が自分を見つめていた。


「私……姉小路さんに、あんなに憎まれていたなんて知りませんでした」


「同じ陰陽師の仲間なのに……」


 その声は、かすれるように小さかった。鈴音の声は震えていた。


「姉小路さんは、私のせいであんなことを……」


 鈴音の声に、深い悲しみが込められていた。人を傷つけることなど考えたこともなかった彼女にとって、今夜の出来事は想像以上に重い体験だった。


「黒曜さまを巻き込んでしまって、ごめんなさい」


 そのとき、馬車が小さな段差を越えて揺れた。鈴音の体がよろめき、黒曜が自然に手を伸ばして彼女を支える。

 彼の手が鈴音の肩に触れた瞬間、温かな感触が着物を通して伝わってきた。


「君は何も悪くない」


「君が守ろうとしたのは、皆の命だ。今夜、多くの命を救った。それは誇るべきことだ」


 黒曜の声は、いつもより柔らかかった。

 馬車の小窓から差し込む月光が、二人の間を淡く照らしている。外の世界の喧騒から離れた、この小さな空間で交わされる言葉は、鈴音の心に深く響いた。


「君のせいで彼女が変わった訳でもない。もともと心の中にあったものが、表に出たのだ」


「こちらへ」


 黒曜の腕が、そっと鈴音の肩を包んだ。彼女は隣の席へと促され、黒曜のすぐ側に座った。

 間近で見上げる黒曜の横顔。月明かりが差し込む馬車の中で、白銀の髪が淡く輝いていた。


「鈴音。君は私が出会った中で、最も純粋で誠実な人間だ」


 黒曜の声が、すぐ耳元で響く。その低い音色が、鈴音の胸の奥まで染み込んでいく。


 彼の腕が、さらに優しく鈴音を包み込んだ。


 黒曜の温かな体温。鈴音の着物の上からでも分かる、確かな安らぎ。


 鈴音は戦いの最中に聞いた、黒曜の言葉を思い出していた。姉小路に向けて放たれた、あの冷たく厳しい声音。


『お前と鈴音では、比べ物にならない。鈴音の心の美しさを、お前は永遠に理解できないだろう』


『鈴音は恐れながらも前に進み、傷つきながらも他者を思いやる――』


 あの時は解除に夢中で深く考える余裕がなかったが、今になってその言葉の重みが胸に響いてくる。


 そこには、黒曜が自分を護ろうとする強い意志が込められていた。


 そのことを思い出した瞬間、鈴音の頬がじんわりと紅色に染まっていく。鈴音の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 ――黒曜さまは、こんな私にいつも温かい思いをかけてくださる。


 鈴音の胸が熱くなった。黒曜の言葉が、凍りついた心を少しずつ溶かしていく。


「黒曜さま……」


 鈴音が顔を上げると、黒曜の紫水晶の瞳が自分を見つめていた。その瞳に宿る優しさに、思わず息を呑む。


「無理をしなくていい」


 黒曜の低い声が、すぐ耳元で響いた。彼の手が鈴音の肩をそっと押さえ、自分の胸元へと優しく導く。


「今夜はもう何も考えるな」


 鈴音は黒曜の胸に身を預けた。黒曜の腕が静かに鈴音を抱きしめた。温かく力強い腕が、震える鈴音の体を優しく包み込んだ。

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