第18話「鬼の第二皇子・碧玉」


 その時、会場の空気が変わった。


 扉の向こうから、新たな来訪者の気配が伝わってくる。鈴音の直感が、激しく危険を告げていた。


 扉が開かれると、まず数名の鬼族が姿を現した。警戒深い目で会場を見回している。彼らの間から、現れたのは、短い金髪に金の瞳を持つ美しい青年だった。 

 

 額に二本のツノがきらめく。彼は鬼族だ。

 その美貌は黒曜とは、まったく違うタイプで、黒曜が月なら彼は陽。

 芸術家が魂を込めて創り上げた傑作のようだ。だが、どこか軽薄で冷酷な印象を鈴音は感じた。

 その登場に会場がざわめく中、彼は堂々と歩を進める。


 黒曜のそばに居た焔の表情が、その青年を認識したとたん、一瞬で険しくなった。手が剣の柄に移動する。その警戒ぶりを見て、鈴音も身構えた。


 黒曜の全身に、微かな殺気が漂った。普段の冷静さとは違う、鋭い緊張感が彼を包んでいる。


「なぜ、お前が人間界にいる。碧玉へきぎょく


 黒曜の声は、氷点下まで冷え切っていた。その低い響きに、鈴音は身震いを覚える。黒曜がこれほど警戒を露わにするのを見たことがない。


「お久しぶりです」


 青年――碧玉は、わざとらしい笑顔を浮かべながら近づいてきた。その笑みには、明らかな悪意が込められている。見ているだけで、鈴音の背筋に冷たいものが走った。


「あなたが肩入れしている、人間の世界を一度見てみたくなりまして」


 昨日こちらに到着したのですよ。と大袈裟な身振りで話す碧玉の態度には、露骨な皮肉が込められていた。周囲の空気が一気に緊迫する。


 鈴音は無意識のうちに、黒曜との距離を少し詰めていた。この碧玉という人物から、身を守ろうとする本能的な反応だった。


「この方は?」


 碧玉の視線が鈴音に向けられた。その瞳には、値踏みするような冷たい光が宿っている。まるで虫けらでも見るような視線だった。

 鈴音の全身に、悪寒が走った。


「……私の弟だ」


 黒曜が簡潔に答えた。その声には、明らかな警戒が込められている。弟という血縁でありながら、敵を見るような眼差しだった。


「おや、人間ですか?」


 碧玉の口調には、露骨な軽蔑が滲んでいた。その言葉に込められた侮蔑に、鈴音の胸が痛んだ。


「黒曜皇子さまの護衛を務めております」


 鈴音は毅然として答えたが、内心では恐怖に震えていた。碧玉から放たれる敵意が、肌を刺すように感じられる。


「兄上らしい……独特なご趣味だ。人間の護衛とは」


「まあ、白い『異形』のあなたにはお似合いかもしれませんね」


 その言葉に、鈴音の心臓が止まりそうになった。黒曜の美しい白髪を『異形』と呼ぶ弟の言葉が、あまりにも残酷に響く。


 先日、梅のつぼみを見上げながら、焔が言っていた言葉を思い出した。


『鬼族の皇族の血筋ってのは、基本的に金の髪に金色の目なんだよ。でも黒曜さまは……』


 鈴音の胸に、静かな怒りが湧き上がった。こんなにも美しく気高い黒曜を『異形』と呼ぶなど、どうして許されるのだろう。生まれ持った外見で人を貶めるなど、あまりにも理不尽だ。

 

 鈴音は思わず黒曜を見上げた。彼は表情を変えなかったが、その瞳の奥に刻まれた傷を、鈴音は見逃さなかった。


「では、私はこれで。兄上の『活躍』を楽しみにしています」


 彼は薄い笑みを浮かべ、まるで挑発するように続けた。


「ああ、そうだ。後日、兄上が滞在されている迎賓館にお邪魔いたしますので」


 碧玉が優雅に一礼して去っていく。護衛たちも無言で後に続いた。


 宴会場に気まずい静寂が流れた。黒曜の瞳に深い悲しみが一瞬過ぎ去り、すぐにいつもの無表情に戻る。


 鈴音は何か声をかけたかったが、言葉が見つからなかった。ただ、護衛として、そして一人の人間として、黒曜の役に立てることがあれば何でもしたいという想いだけが、胸の中で膨らんでいた。


(どんな言葉をかければいいのか分からない。自分などが軽々しく口を挟んでいいものだろうか)


 迷いながら唇を開きかけた時、黒曜の視線が鈴音に向けられた。紫の瞳が、静かに鈴音を見つめている。


 ――鈴音は、黒曜の意志を受け取り、こくりとしずかに頷いた。


 彼の視線には、いつもの冷徹さの中に、鋼のような意志の強さが見えた。碧玉の挑発にも動じることなく、自分の道を貫こうとする静かな決意が、紫の瞳の奥で光っていた。





 


「本日は歴史的な夜です。人間界と鬼族の永続的な平和のために……」


 それから程なくして、帝の挨拶が始まった。威厳に満ちた帝の声が会場に響く。しかし、先ほどの碧玉の登場で、場の空気は一気に重くなっていた。


 鈴音は黒曜の近くで警備に当たりながら、会場全体に気を配っていた。何かが起こる予感が、どんどん強くなっていく。


 それは黒曜の弟、碧玉の登場のことかとも思ったが鈴音の感がもっと大きな、会場全体を揺るがすような事件の到来を告げていた。

 鈴音は自分でも制御できない胸の奥で、不安を感じていた。


 ちび虎も袖の中で緊張しているのが分かった。いつもの食べ物への関心など、どこかに吹き飛んでしまっている。


 帝が和平の杯を、高々と掲げた瞬間――空気が急変した。


 甘い香りが会場に立ち込め始める。上品な花の香りの奥から、腐敗したような甘ったるさが滲み出てきた。明らかに邪悪な気配を帯びていた。


 鈴音の直感が激しく危険を告げた。父から受け継いだ霊感が、全身の毛穴から警鐘を鳴らしている。


「おい鈴音! この匂い、やばいぞ!」


 ちび虎が警告の声を上げたが、そのまま倒れ込んで寝息を立て始めた。


「なんだ、この眠気は……」

帝の声が弱々しくなり、テーブルに崩れ落ちる。


「これは罠か!」焔が剣に手をかけたが、困惑したまま床に倒れ込んだ。


「禁呪だ! 全員、警戒しろ!」


 山崎が符を取り出して叫んだが、言葉を最後まで紡げずに意識を失った。

呪いの効果は会場全体に広がり、人々が次々と倒れていく。最初はざわめいていた人々も、次第に異変に気づき始めた。


 しかし、気づいた時にはもう手遅れだった。陰陽師たちも、鬼族も、人間界の重臣たちも次々と深い眠りに落ちていく。


 美しく着飾った貴婦人が手にしていたワイングラスを落とし、赤い液体が絨毯に広がる。


 優雅だった宴会場が、一瞬にして静寂の墓場と化していく。

 皮肉にも、陰陽師たちが刺客の侵入を防ぐために張った強固な結界が、今度は全員を会場に閉じ込める檻となっていた。


 鈴音の体が小刻みに震えていた。血管を流れる血液の音さえも聞こえるような気がする。耳鳴りがして、自分の呼吸音が異様に大きく響く。


 鈴音は呆然と立ち尽くしていた。


 ――会場で意識を保っているのは、黒曜と自分だけだった。


(え……! なぜ私たちだけが?)

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