第17話
僕が自らの罪から目をそむけないと定めてから、どれほどの月日が流れたのだろうか。
僕の精神は、もはや時を刻むという機能を完全に放棄していた。ただ、夜が来て、朝が訪れる。その単調な繰り返しだけが、僕という存在がまだこの世界から消え去っていないことを証明する、唯一の指標だった。
世界は、その崩壊の歩みを止めることはなかった。むしろ、僕という動かざる中心核を得て、より安定的かつ悪質な螺旋を描きながら、ゆっくりと奈落の底へと沈み続けているようだった。
僕の家は、もはや家族が住まう場所としての温もりを完全に失い、ただ同じ屋根の下に三人の人間が息を潜めているだけの、冷え切った箱と化していた。父は会社での立場を追われたらしく、昼間から安物の酒を呷り、虚ろな目でテレビの画面を眺めている。その背中は、僕が知っていた頃の父とは似ても似つかぬほど小さく、人生という重荷に打ちのめされた敗残兵のように見えた。母は、僕の気配を感じるだけで、まるで幽霊でも見たかのように体をこわばらせ、足早に自室へと逃げ込む。彼女の瞳から生気は日に日に失われ、頬はこけ、その顔には深い疲労と諦観の色が刻み込まれていた。かつて食卓を彩っていたはずの二人の会話は、今では食器がぶつかり合う乾いた音と、時折どちらかが吐き出す、やり場のないため息に取って代わられていた。
学校という名の閉鎖空間は、猜疑心と恐怖が飽和状態に達した、見えない毒霧が立ち込める収容所のようだった。以前はまだ悪ふざけの範疇に収まっていた生徒たちの間のいさかいは、今ではより陰湿で粘着質なものへと変貌を遂げていた。誰かが些細なきっかけで標的にされ、その存在を教室という共同体から抹殺しようとする、集団的なヒステリー。僕という絶対的な『不吉』の存在が、彼らの心の奥底に眠っていた悪意を呼び覚まし、増幅させているのは明らかだった。僕は、その全ての元凶でありながら、ただの空っぽの器として、教室の隅で静かにその光景を眺め続けるだけだった。僕の心は、度重なる地獄の光景の中で、あらゆる感情を生成する機能を停止していた。罪悪感も、絶望も、恐怖も、僕の中ではもはや何の波紋も呼ばない、ただの記号と化していた。
そして、その日はやってきた。
四人目の死者が出たのだ。
その日の朝、僕たちは再び体育館の冷たい床に座らされていた。ぞっとするほど見慣れた光景だった。ステージの上に立つ校長は、マイクを持つ手が小刻みに揺れている。彼の顔は土気色で、その瞳はどこか現実から遊離しているようだった。
「……本日、皆さんに、またしても、大変痛ましい報告をしなければなりません」
掠れる声が、マイクを通して体育館全体に響き渡る。生徒たちの間に、さざ波のような動揺が広がった。それは、これまでの死がもたらした『呪い』へのオカルト的な恐怖とは質の異なる、もっと生々しく、現実的な動揺だった。
「本校に在籍する、一年生の男子生徒一名が……昨夜、自宅で、自ら、その尊い命を絶ちました」
体育館の空気が、一瞬にして凍てついた。誰かが短く息を吸う音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
「彼の部屋からは……遺書が見つかっています。そこには、クラス内での、いじめに苦しんでいたことが、記されていました……」
校長の声は、最後にはほとんど音になっていなかった。
いじめ。その、あまりにも直接的で、誰にでも加害者にも被害者にもなりうる現実が、全校生徒の眼前に、血の滲むようなリアリティをもって突き付けられたのだ。生徒たちの顔から、血の気が引いていく。特に、一年生の集団からは、嗚咽を漏らす声さえ聞こえてきた。
僕は、その光景を、まるで厚いガラスの向こう側から眺めているかのように、何の感慨もなく見つめていた。
ああ、また一人死んだのか。
僕があの教室にいるから、生徒たちの心は歪み、いじめは加速した。僕が、あの子を殺したも同然だ。
その思考は、僕の心に何の痛みももたらさなかった。ただの事実確認。今日の天気が曇りであることを認識するのと、何ら変わりはなかった。僕の心は、完全に乾ききった砂漠のようになっていた。
その、ひどく長くて、内容の無い全校集会が終わった直後だった。
生徒たちが、重い足取りで教室へと戻っていく中、担任が、蒼白な顔で僕の元へ駆け寄ってきた。その尋常ではない様子に、僕はただ無表情に彼を見つめ返した。
「……お前の、家が」
担任は、ぜえぜえと肩で息をしながら、言葉を絞り出した。
「お前の家が、火事だ……! たった今、連絡が……!」
その言葉を聞いた時も、僕の心は凪いだままだった。
そうか、家が燃えたのか。
ただ、それだけだった。何の驚きも、悲しみもない。まるで、遠い国の出来事を報じるニュースのテロップを眺めているかのような、他人事の感覚。
僕は、担任に促されるまま、タクシーに乗せられた。学校から緊急で手配されたのだろう。運転手は、僕の制服と、隣で焦燥に駆られている担任の顔を見て何かを察したのか、何も言わずにアクセルを踏み込んだ。
車窓の外を、見慣れた街の景色が高速で流れ去っていく。その、何の変哲もない日常の風景が、僕のいるこの現実から、ひどくかけ離れたものに見えた。
やがて、タクシーが急ブレーキをかけた。僕が住んでいた住宅街の一角に、赤と白の車両が何台も停まり、規制線が張られているのが見えた。
僕が車から降り立つと、鼻をつく、異様な匂いがした。何かが焼け焦げた、胸が悪くなるような悪臭。そして、目の前に広がっていたのは、黒く焼け落ちた、かつて僕の家だったものの、無残な骨格だった。
つい昨日まで、そこには僕の生活があった。家族がいて、僕の部屋があった。しかし、今そこにあるのは、天に向かって突き出す、炭化した柱と、崩れ落ちた壁の残骸だけ。屋根は完全に焼け落ち、ぽっかりと空いた穴から、憎らしいほどに青い空が見えていた。
消防隊員たちが、まだ燻る残骸に水をかけ続けている。その放水音が、この世の終わりのような静寂の中で、虚しく響いていた。
一人の警察官が、僕に気づいて近づいてきた。年の頃は四十代だろうか。その疲れた顔には、同情の色が浮かんでいた。
「……君が、ここの家の息子さんだね」
僕は、何も言わずに頷いた。声の出し方を、忘れてしまったかのようだった。
「……辛いだろうが、聞いてほしい。昨夜の深夜、火元は台所だと思われる。詳しい原因は調査中だが……。その、発見が遅れてしまって……」
警察官は、一度言葉を切り、僕の目から視線を外した。
「お母様と、お父様が……残念ながら、この焼け跡から、発見された。二人とも……」
僕は、その言葉を、ただ聞いていた。
父と、母が、死んだ。
僕が、この家に帰ってきたせいで。僕という存在から漏れ出す穢れは、ついに、この家そのものを物理的に破壊し、僕の最も身近な人間を、その贄としたのだ。
母が、心を病んで火の不始末でも起こしたのだろうか。あるいは、父が、酒に酔った勢いで……。どちらにせよ、その引き金を引いたのは、紛れもなく僕だ。
分かっている。
僕が、僕自身の両親を、この手で殺したのだ。
その、あまりにも重い事実でさえ、僕の心を揺らすことはなかった。
僕の心は、もう何も感じない。何も。
悲しみも、苦しみも、罪の意識さえも、全ては、僕という空っぽの器を通り抜けていくだけだった。
僕にはもう、何もなくなった。
帰るべき家も、僕を待っているはずだった家族も、全てが灰になった。僕という存在を、かろうじてこの世界に繋ぎとめていた、最後の、そして最も大切な絆が、今、完全に断ち切られた。
僕は、その焼け跡の前で、ただ立ち尽くしていた。
悲しくも、辛くもなかった。ただ、空っぽになった。
僕の内側も、僕の外側も、全てが等しく虚無になった。
これからどうするのか、などとは考えなかった。思考そのものが、僕の中から消え失せていた。
ただ、一つだけ。
僕の空っぽの意識の底に、行くべき場所が、まるで羅針盤の針のように、揺らぐことなく示されていた。
全ての始まりの場所。
僕が、僕でなくなった場所。
僕が、この地獄に足を踏み入れた場所。
学校だ。
何の目的もない。何かを解決したいという意思もない。
ただ、僕という物語を終わらせる場所は、そこ以外にはあり得ない。
僕の足は、まるで最後の巡礼に向かうかのように、再び、あの絶望の校舎へと、ゆっくりと、しかし確実に向き始めていた。
僕という、空っぽの器を引きずりながら。
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