第15話
深夜。僕が自室のドアを開け一歩廊下へと踏み出した。
カチリというその小さな金属音がした。
その静かな音を合図に僕は思った。
この家で過ごす最後の時が今なのかと、そう、ぼんやりと思った。
家の中は深い静寂に満ちていた。
僕は床がきしまないよう猫のように足音を忍ばせ階段を下りた。
常夜灯の頼りない明かりが照らし出すリビングには昨夜の口論の残骸のような険悪な空気がまだ澱のように沈殿しているように感じられた。
僕はその場所を通り過ぎる時決してリビングの方を見なかった。
そこに僕が壊してしまった家族の団欒の幻を見てしまうのが怖かったからだ。玄関で僕は一度だけ足を止めた。
そして振り返ることなく心の中でだけ最後の別れを告げた。さようなら父さん母さん。
僕という疫病神はもう二度とあなたたちの前に姿を現すことはない。
玄関のドアを静かに開け外の世界へと体を滑り込ませる。
冷たいコンクリートの感触がスニーカーの薄いソールを通して足の裏に伝わってきた。
ドアを閉めると僕と僕が捨てた日常との間にはっきりと境界線が引かれた。
僕はもう帰る場所を失ったのだ。
見慣れたはずの住宅街は夜の闇に飲み込まれ全く別の顔を見せていた。
等間隔に並んだ街灯が放つオレンジ色の光はまるで不気味な道標のようにどこまでも続く暗闇に溶け込んでいる。
その光の当たらない家々の壁や生垣の奥はインクを垂れ流したように深く黒々としておりそこには得体の知れない何かが潜んでいるかのような、あの錯覚さえ覚えた。
僕はあてもなく歩き始めた。
どこへ向かえばいいのか。そんな計画などあるはずもなかった。
僕の頭の中にあるのはただ一つこの家から一刻も早く遠ざからなければならないという強迫観念にも似た焦りだけだ。
僕という存在がこの場所に留まる限り僕が愛する人間は確実に不幸になる。その事実だけが僕の足を前へ前へと突き動かしていた。
今の僕の財布にある金額は心ともない。
この金が尽きた時、それから先、僕はどうすればいいのだろうか?
そんな不安が頭の片隅をよぎらなかったわけではない。しかしそれ以上に家族を次の犠牲者にしてしまうという恐怖が僕の思考を支配していた。
僕自身の未来などもうどうでもよかった。僕の人生はあの資料準備室を覗き込んだ日にすでに終わっているのだ。
今僕が生きているこの時間はただの余生であり罰そのものだった。
やがて住宅街を抜け大通りに出た。
深夜だというのに時折ヘッドライトを煌めかせた車が猛烈なスピードで走り抜けていく。
その無機質な走行音だけがこの世界の時間がまだ止まっていないことを僕に教えてくれた。
道端にぽつんと立つ自動販売機の明かりが僕の顔を青白く照らし出す。僕はその光の中に自分の姿が映らないように俯いて足早に通り過ぎた。
どれくらい歩き続けたのだろう。足は鉛のように重くなり、体全体に疲労が蓄積していく。
僕は道端のコンビニエンスストアの前に設置されたベンチに崩れるようにして腰を下ろした。
ガラス張りの店内では夜勤の店員が気だるそうに雑誌を棚に並べている。
その人工的で無機質な光景が僕のいるこの世界から僕が切り離されているように見えた。
僕はこれからどうなるのだろう。
このまま夜が明ければ僕の居場所は完全になくなる。
昼間の光の中に僕という穢れの塊が身を隠せる場所などありはしない。
公園の隅かあるいはどこかのビルの裏手で息を潜めて過ごすことになるのだろうか。
それは僕が自室で続けていた監禁生活と何ら変わりはない。ただ独房が少しだけ広くなったに過ぎない。
そして僕という存在から漏れ出す瘴気はまた新たな標的を見つけ出すだろう。
僕が身を寄せた場所の近くに住む誰かをあるいは僕にほんのわずかな親切心を見せた誰かを。
結局どこへ逃げようと無駄なのだ。僕自身が穢れの発生源である限り僕の行く先々で悲劇は繰り返される。
そのどうしようもない事実に気づいた時僕の心は再び完全な虚無に支配された。
家を出るという僕の決断さえもが結局は何の意味もなさない自己満足の行為だったのではないか。
僕はベンチからゆっくりと立ち上がった。
足が勝手に動き出した。僕の足はいつの間にか見慣れた道筋をたどっていた。何度も何度も通った通学路。商店街のシャッターが下りた薄暗い通りを抜け細い路地に入る。
なぜこの道を選んだのか僕自身にも分からなかった。
ただ僕の魂の最も深い部分が全ての始まりとなったあの場所へと引き寄せられているようなそんな感覚があった。
全ての元凶となったあの場所でならこの終わりのない苦しみに何らかの答えが見つかるかもしれない。あるいは完全な終わりを迎えることができるかもしれない。
そんな破滅的な期待が僕の無意識の底にあったのかもしれない。
やがて目の前にあの巨大な黒い塊が姿を現した。
学校。夜の闇に沈んだ校舎はまるで巨大な怪物が口を開けて獲物を待ち構えているかのように不気味な威圧感を放っていた。
固く閉ざされた校門の鉄格子が僕の行く手を阻んでいる。しかし今の僕にそれをためらう理由はなかった。
僕は慣れた手つきで鉄格子に手足をかけ、それを乗り越えた。
着地の衝撃が膝に鈍く伝わる。
しんと静まり返った校内。風がグラウンドの砂を巻き上げる音だけが聞こえていた。
僕は校舎へと向かって歩き出した。目指す場所は決まっている。
昇降口のドアはやはり施錠されていなかった。
まるで僕が来ることを知っていたかのように。僕はそのガラスの扉を押し開け死んだ空間へと足を踏み入れた。
自分の靴音がやけに大きく反響する。僕はその音に導かれるようにして階段を上った。
二階の廊下。
窓から差し込む月明かりが床に青白い幾何学模様を描き出している。僕はその光と闇のまだらを一つ一つ踏み越えながら廊下の奥へと進んでいった。
そして僕はたどり着いた。
あの忌まわしい資料準備室の前に。
僕はその扉の前に立った。
この向こう側にあった純粋な『死』
僕をこの地獄へと引きずり込んだ全ての元凶。
僕はゆっくりとドアノブに手を伸ばした。これが僕の最後の旅路になるのかもしれない。
その時だった。
すと。
何の予兆もなく僕の背後に人の気配が現れた。
僕はゆっくりと振り返った。
そこに彼女が立っていた。
桜木セイラ。
純白のセーラー服が月明かりを吸い込んでぼうっと淡く発光しているかのようだ。
長い黒髪が風もないのにさらりと揺れている。その人間離れした美しさはこの世の法則から逸脱した存在であることを何よりも雄弁に物語っていた。
彼女は僕がここに来ることを完全に予期していたかのように静かにそこにたたずんでいた。
その大きな切れ長の瞳には深い慈愛のようなものがたたえられ、僕を見つめる表情は相変わらず母親が愛しい子供を見守るかのような温かさに満ちていた。
「やはり来ましたね、この場所へ」
彼女の鈴が鳴るような声が静寂を破った。その音色は以前と変わらず優しく美しい響きを持っていた。
セイラは慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、僕に向かって歩み寄ってきた。
「あなたという『器』が、穢れで満ちようとしていますね」
彼女の表情は相変わらず慈愛に満ちている。
「このままでは器が溢れてしまう。そうなれば……」
彼女は少し困ったような、しかし優しい表情を浮かべた。
「よくないことが起きるでしょう」
僕は彼女を見据えた。これまで抱え続けてきた怒りと絶望が、ついに僕の口を開かせた。
「君は嘘をついた」
僕の声は自分でも驚くほど冷静だった。
「君は言ったじゃないか。封印する、と。穢れが漏れださないように処置する、と。でも君は何もしなかった」
セイラの表情は変わらず慈愛に満ちていた。まるで愛しい子供の無邪気な質問を聞く母親のような。
「二人目が死んだ時も、三人目が死んだ時も、君は何もしなかった。君が約束したことなんて最初から嘘だったんだ」
「ああ、そのことですか」
セイラは心から納得したというような表情を浮かべた。
「確かに、私の処置は不完全でした。あなたという器は想像以上に欠陥が多く、穢れの漏出を完全に防ぐことはできませんでした」
慈愛に満ちた表情を浮かべているセイラの口調は、まるで壊れた道具の不具合を説明する技術者のように淡々としていた。
「それだけか?人が死んでるんだぞ!僕のせいで!」
「ええ、承知しています」
セイラは僕の怒りを見ても、変わらず優しく微笑み続けていた。
「だからこそ、最も適切な処置をお教えしているのです」
彼女はそう言うと、花のような笑顔を浮かべた。
「あなたの選択は結局、土地の汚染を最大限に拡大させる最も愚かなものでした。あなたの家はもう穢れに完全に汚染されています。このままではその汚染はこの町全域にまで広がることになるでしょう」
彼女は愛おしい子供に真実を教えてあげているかのような、温かい微笑みを浮かべて続けた。
「もうあなたという不完全な器に穢れの管理を任せておくことはできません」
セイラは僕の前にしゃがみ込むと、そっと僕に手を伸ばした。
「あなたには最後の選択肢が与えられます」
彼女は白く細い指をすっと上げ二つの道を示した。
「一つは人としての自我を捨て、この土地の秩序を守るための永遠の『番人』となる道。あなたは人ならざるものとなり、この資料準備室に留まり、穢れが外部へ漏れ出さないよう永久に管理し続けることになります。そうすればこれ以上の悲劇が起きることはありません」
彼女の言葉は理路整然としていた。その通りだ。それが最も合理的で、最も被害の少ない解決策に違いない。
「もう一つの道は人として最後まで抗い続けること。人間としての自我を保ったまま、この町があなたの穢れによってゆっくりと破滅していく様を、ただ無力なまま見届けるのです。あなたの友人たちが、家族が、そして見ず知らずの人々が次々とあなたのせいで死んでいく。その罪の全てを背負いながら人として生き地獄を味わい続ける道です」
セイラの言うことは正論だった。
彼女の慈愛に満ちた表情は、僕のためを思って最良の選択肢を与えてくれているのだと語っていた。
完全に正しい。論理的で、合理的で、最善の解決策を提示していた。
しかし、これまでの彼女の行いを考えてみた。
漏れないはずの呪い。しかし、漏れていた。
そして、完璧な対処なはずだったが、すでに周囲で死が振りまかれ、僕の両親は険悪な状態。さらに僕の母は『死』を見ていた。
だとすれば?
彼女の言うことは正しい。間違いなく正しい。
でも、それでも僕は従いたくなかった。
確証はなかった。しかし、彼女の話すことがもはや信じることができなかった。
それに、彼女のその慈愛に満ちた表情が、その理路整然とした提案が、なぜか許せなかった。
僕はしばらくの間、何も言えずに立ち尽くしていた。
しかし、やがて僕の中で何かが決まった。
「……嫌だ」
僕の口から漏れたのは、自分でも驚くほどはっきりとした拒絶の言葉だった。
「番人にもならない。そして誰かの犠牲を見届けることもしない。どちらも選ばない」
僕の言葉にセイラの表情は初めてわずかに変化したように見えた。それは困惑というよりも、むしろ興味深い観察対象が予想外の行動を取ったことに対する純粋な好奇心のようなものだった。
「ではどうするのですか」
彼女の問いに、僕ははっきりと答えた。
「この穢れは全部俺が引き受ける。この身の内側に抱え込んだまま、人間として生きる」
それはセイラが提示したどちらの道とも違う第三の道。
逃避としての隔離を選ぶのでもなく、人ならざるものになるのでもない。
自らが破壊していく日常のその中心に敢えて留まり続けるという、最も過酷で最も残酷な贖罪の道だった。
「俺は学校へ戻る。家にも帰る。そして俺のせいでこれから起きるかもしれない全ての悲劇から絶対に目をそらさない。その罪の全てをこの身に刻みつけながら、人間として最後まで存在し続けてやる」
それは希望から生まれた決意ではなかった。
それは絶望の果てに見出した意地だった。この理不尽な運命にただ無力に流されるのではなく、自らの意思で最も苦しい罰を受け入れてやろうという覚悟だった。
セイラの慈愛に満ちた微笑みが、僕のその答えを聞いてもわずかにも揺らがなかった。
これまでと同じように彼女はただ、温かい眼差しで僕を見つめているだけだった。
「そうですか。それがあなたの選択なのですね」
彼女の声は相変わらず鈴が鳴るような美しさを持っていた。
「私は、あなたには最良の形を提示したはずなのですが」
僕のその答えを聞いても、セイラの表情は変わらなかった。
彼女はただ静かに僕を見つめているだけだった。僕の選択を肯定も否定もしなかった。
僕はそんな彼女に背を向けた。
そして資料準備室のドアノブから手を離し、今来たばかりの廊下へ戻った。
僕の新たな地獄が今始まろうとしていた。
僕はもう逃げない。
この身が穢れによって、周囲が地獄に落ち、この身が朽ち果てる。
その最後の瞬間まで、僕は人間として、この罪の連鎖を見届けてやるのだと、僕は決めたのだった。
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