第12話
桜木セイラによって僕の内側に『死』が封じ込められてから、僕を苛んでいた怪奇現象は嘘のように止んだ。
視界の隅をよぎる黒い存在も、カバンの中に潜む生首の幻覚も、もうない。自分の知らないうちに書かれるノートの文字も、勝手に口から漏れる絶望の言葉も、全て過去のものとなった。
世界は元の退屈で平凡な日常を取り戻したかのように見えた。
朝、決まった時間に目を覚まし、制服に袖を通す。毎朝同じ道を通学して、校門をくぐる。教室の自分の席に着けば、あとは時間が過ぎ去るのを待つだけ。チャイムが鳴り教師が来て、教科書のページがめくられまたチャイムが鳴る。
かつて僕が『退屈で平坦な灰色の一本道』と感じていた日常が、そのまま戻ってきていた。
しかし、僕の心は決して晴れることはなかった。
この平穏は偽りだ。嵐が過ぎ去ったのではなく、嵐そのものを僕の内側に封じ込めた上で成り立っている、脆く危うい見せかけの静けさに過ぎない。
僕の体の中には、今もあの『死』がずしりと重く沈んでいる。歩くたびに、その重量が僕の存在を圧迫する。
何かが蠢くような感覚がある。封じ込められた『死』が、外へ出ようともがいているのではないか。そんな不安が絶えず僕の心を掻き乱していた。
クラスメイトたちによる僕に対する態度を以前のものに戻っていた。
僕が奇行に走らなくなり独り言を呟かなくなったことで、彼らの僕を見る目に含まれていた警戒心や好奇心は徐々に薄れていった。
そして最終的には以前と同じ完全な無関心へと戻っていった。僕は再び彼らの意識の外側へと追いやられたのだ。
それは僕にとって好都合なはずだった。
だが僕にはもう以前のように彼らを水槽の向こう側の生き物として眺めることはできなかった。
僕は知ってしまったのだ。
この世界の薄い皮一枚下には全く別の法則で動く裏側の世界が広がっていることを。そして僕自身がその二つの世界を繋ぐ不安定な境界線そのものであるのだ。
◇
数日が過ぎた。
慣れとは恐ろしいもので、僕もこの奇妙な偽りの平穏に馴染みつつあった。
内なる穢れの重みを感じながらも、それを意識の底へと沈め日常の仮面をかぶり続ける。
もしかしたらこのまま何も起きないのかもしれない。僕はこの爆弾を抱えたまま誰にも気づかれずに、この退屈な人生を終えることができるのかもしれない。
そんな淡い希望とも諦めともつかない感情が僕の心に芽生え始めていた矢先のことだった。
その日僕はいつも通り朝のホームルームが始まる前のざわついた教室の席に座っていた。現代文の教科書を開いてはいるものの、その文字は全く頭に入ってこない。ただ周囲の喧騒から自分を切り離すためのポーズに過ぎなかった。
教室の空気はいつもと少し違っていた。
最初の女子生徒が自殺した後のあの憶測と興奮が入り混じった熱気とも違う。もっとじっとりとした粘着質で不吉な何かが教室の隅々にまで澱のように溜まっている。生徒たちのひそひそ話す声はいつもよりもトーンが低く、その視線はどこか落ち着きなくさまよっていた。
やがてチャイムが鳴り、担任の男性教師が教室に入ってきた。そのくたびれたスーツ姿はいつもと同じだったが、その顔色は明らかに悪かった。彼は教壇に立つと重いため息を一つついた。その仕草だけで教室のざわめきがすうっと引いていく。
生徒たちの視線が一斉に彼に注がれる。
嫌な予感がした。
この光景は以前にも見たことがある。
「……あー諸君。少し静かにしてくれ」
担任の声はかすれていた。彼は一度ごくりと喉を鳴らしてから言葉を続けた。
「また皆に大変悲しい知らせをしなければならなくなった」
その前置きだけで教室の空気が凍り付いた。誰かが小さく息をのむ音が聞こえた。
「昨日……昨日の放課後のことだ。本校の二年生の女子生徒一名が……交通事故に遭い亡くなった」
その言葉は静かだが重い一撃となって生徒たちの心を打ちのめした。
交通事故。
自殺ではない。しかしこの短い期間に二人も同じ学年の生徒が命を落とす。それは偶然というにはあまりにも出来過ぎていた。
教室はしんと静まり返った。誰も一言も発しない。ただ信じられないといった表情で互いに顔を見合わせている。
担任は心のケアについて相談窓口の案内など、以前と同じような事務的な連絡を告げると重い足取りで教室を出ていった。
彼が去った後もしばらく沈黙が続いた。
やがてその沈黙を破ったのは誰かの小さな嗚咽だった。女子生徒の一人が机に突っ伏して肩を震わせている。それをきっかけに堰を切ったように教室は再び騒がしさを取り戻した。
「嘘でしょ……」
「また二年生が……」
「誰、どこのクラスの子……?」
情報が錯綜する。
僕はその喧騒から意識的に距離を取っていた。ただ黙って自分の席に座り、その光景を眺めていた。僕の内側では警鐘がけたたましく鳴り響いていた。これはただの事故ではない。僕の内なる穢れが関係しているのではないか。そんなおぞましい疑念が頭をもたげる。
やがてその疑念を確信へと変える情報が僕の耳に飛び込んできた。
亡くなった女子生徒の名前。
それは僕も知っている名前だった。彼女はクラスこそ違えど派手なグループに属し、校内でも目立つ存在だったからだ。
そして何よりも。
彼女は最初に自殺したあの内気な女子生徒をいじめていたグループの中心人物だと噂されていた生徒その人だったのだ。
「……呪いだ」
誰かがそう呟いた。
その言葉はもはや根も葉もない噂話ではなかった。それはこのクラスの生徒全員が心のどこかで感じていた恐怖の正体に具体的な名前を与えた瞬間だった。
「あの子の呪いなんだよ」
「いじめてたから殺されたんだ」
「次は誰……?」
恐怖は伝染する。
生徒たちの顔から血の気が引いていく。特に亡くなった女子生徒と親しくしていたグループのメンバーたちは顔面を蒼白にさせ、明らかに何かに怯えていた。
僕はその光景を他人事として眺めることができなかった。
僕だけが知っている。
これは呪いなどではない。もっと悪質で理不尽な何かだ。
そしてその引き金は僕の内側にある。
その日の授業内容は全く頭に入ってこなかった。休み時間になると生徒たちはグループごとに集まり、ひそひそと声を潜めてその話題について語り合っていた。その輪の中に僕が入ることはない。僕はただ孤独にその喧騒を聞きながら、事態がさらに悪い方向へと転がっていくのを予感していた。
昼休み。
僕は教室の息苦しさに耐えきれず、弁当も食べずに席を立った。廊下へ出ると、あちこちで同じような会話が交わされている。
僕は誰とも目を合わせないように足早にその場を立ち去ろうとした。
その時だった。
僕の耳にある会話の断片が引っかかった。
少し離れた場所で数人の男子生徒が壁にもたれかかって話していた。
「なあ、聞いたか? 昨日の事故の話」
「なんか目撃者がいるらしいぜ」
僕は思わず足を止めた。そして彼らに気づかれないように壁の陰に身を潜め、その会話に耳を澄ませた。
「そいつの話だとさ」
一人の生徒が声を潜めて続けた。
「事故に遭ったあの子、信号が変わるのを横断歩道の前で待ってたんだって。普通に友達と喋りながら」
「それが急に黙り込んで、ありえないくらい何かに怯えだしたらしい」
「誰もいない方向を指さして『いや、来ないで』って叫んだとか」
「それで周りがびっくりしてる間に、信号まだ赤だったのに、いきなり車道に飛び出したんだって……。まるで何かから逃げるみたいに」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の世界から全ての音が消えた。
周囲の生徒たちの声も廊下のざわめきも、何もかもが遠のいていく。僕の頭の中では、ただ今聞いた目撃者の証言だけが何度も何度もリフレインされていた。
誰もいない方向を指さして。
何かに怯えて。
車道に飛び出した。
僕には分かってしまった。
痛いほどに分かってしまったのだ。
彼女がその最期の瞬間に何を見たのかを。
彼女が指さしたその誰もいない空間に何がいたのかを。
それは僕をあれほどまでに苛み続けたあの黒い塊だ。
首を吊った人間の形をしたあのおぞましい何か。
彼女もあれを見たのだ。
桜木セイラの処置は完全ではなかった。
穢れが漏れているのだ。
きっと、僕という不完全な器から穢れの瘴気がわずかに漏れ出していた。そしてその瘴気が最初の少女と因縁の深いあの女子生徒に影響を与えた。彼女に僕と同じ地獄を見せたのだ。
僕のせいだ。
僕がこの穢れを内包しているせいで、彼女は死んだのだ。
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