スターフルーツ

ちゃみ

夏、ミニボブ

「今月もありがとね。お疲れ様。」

JR両国駅徒歩7分のところにポツンと建っているゲストハウス「Yoi~宵~」のオーナー、山田は現金の入った‐13,8000とボールペンで書かれた茶封筒をハルに手渡す。今時、給与が振込ではなく現金手渡しなことに疑問を抱いた高校1年生の夏からもう3年の月日が経った。ハルが高校3年生の時、パンデミックで閉業寸前だったゲストハウスもなんとか持ち直し、今では海外各国の観光客からの予約が絶えない。ハルも今では週6日、フルで働き1人で生計をたてている。決して楽な暮らしではないが苦でもない慣れきった生活は、あがり時の分からないぬるま湯につかっているようだった。清掃員はハルの他に子育てを終えた主婦5人、役者志望の年齢不詳男性1人、スリランカから出稼ぎに来ている女性陣3人の計10名で、山田が2週間ごとにシフトを組むことになっている。その中でもひときわ若いハルは周りから可愛がられ、真面目な勤務態度も高く評価されている。人との会話は最低限で、1人で黙々と掃除をすればいい職場はハルにとって負担がなかった。


「ハルちゃん、いっぺんに全部使っちゃだめよぉ!貯金しとかなきゃおばちゃんみたいになっちゃうからね!」ベテラン清掃員たまちゃんが陽気な声でハルに話しかける。

「ちょっと、たまちゃん。ハルちゃんはあんたよりしっかりしてんだからね。ねぇハルちゃん!ほんと、若いのに1人でやりくりして偉いね。」

リーダー的存在の頼れるパートさん、坂木さんが答える。

パワフルなおばちゃんたちは、ハルが何も答えなくても会話をどんどん進めていくのでありがたかった。たまにはハルも何か面白い返答をしなきゃと考えているうちに、おばちゃんたちのトピックはいつのまにか両国駅周辺で撮影されていた今季のドラマの話に移り変わる。にぎやかなしゃべり声が3畳ほどのロッカールームに響き渡る中、ハルは茶封筒をトートバッグにしまい、帰り支度をはじめた。


Yoiを出ると太陽は沈みかけているもコンクリートは今だに熱を発していて息苦しい。ポニーテールされていたハルの長い髪は勤務中にすっかり乱れ、後れ毛がうなじにぺっとり張り付いている。20分強自転車をこぎアパートにつくと一目散にユニットバスに向かい、一日の重労働とすさまじい湿気の帰り道のせいでもう汗を吸いきれないほどにひたひたに濡れているキャミソールを脱ぐ。ふと、ハルは洗面台の鏡に目をやる。真っ赤な頬、ほぼ毎日の自転車出勤のせいで変な日焼け跡がついている腕、腕と比べてアンバランスなほど白い小さい乳房、そして乱れきった黒いポニーテール。髪を結っていた水色のゴムをとると髪の毛は汗臭さとともに無抵抗にふさりと、落ちてくる。今度は鏡を背にして振り返ってみると、髪の毛が肩や腰をすっぽり隠しているのが鏡越しに見える。ぱさぱさしている毛先が肌にあたってちくりとする。

「髪の毛切りたい。」

ここ数年抱いていなかった願望がふらっと頭に浮かび、いったんそう思うとどうしても髪を切りたい、切らなければと、もうそれはほとんど脅迫観念のようになっていくのだった。冷たいシャワーを浴び、ドライヤーをかけているとその思いは更に強くなる。それは生理前の抑えられない食欲を感じているときと似ていた。髪の毛をばっさり切った自分は上手く想像できないハルだったが、このドライヤーの時間も短くなると考えただけでも心が浮ついた。


にんじんとソーセージのたっぷり入ったお手製ソース焼きそばを食べながら、Instagramを開き”ボブ”をキーワードに検索をかけてみる。ドキドキしながら無数にでてくる投稿をみていく。人と話すこと、という大きなくくりの中で店員さんと話す、接客をうける、というのはハルにとって一番といっていいほど苦手なコミュニケーションだった。最後に美容院へ行ったのは中学2年生のとき。美容師さんに髪を洗われながら「お痒いところはございませんかぁ?」と話しかけられるのは変な感じがしたし、カット中に「学生なんですか?え、まだ中学生?大人っぽいね。15歳って、、若すぎる!」「学校お休みのときはどんなことしているの?」「今時の中学生って何が好きなの?流行ってるものとか?」、フレンドリーさを装ってなのか無遠慮に色々なことを聞いてくるのにも戸惑った。

「これ、うちでも取り扱っているヘアオイルなんだけど、市販のに比べて髪にいい成分が約20倍入ってるんですよ。私のブリーチ毛もサラサラにしてくれて、ほら。」

おすすめされた綺麗な瓶に入ったヘアオイルは6000円ちかくしたが、なんだか悪い気がして断れず買ってしまった。ハルの母親が「可愛くしてもらってきな。おつりは返してね!」と言って渡した1万円をカット代含めほとんどすべて使ってしまった。それ以降はすっかり美容室が怖くなってしまい、髪が伸びた時は母親に切ってもらったり、毛先を自分で切ったりしてやり過ごしてきた。スクロールしても次々に出てくるキラキラしたカリスマ美容師の投稿ばかり見ていると苦い思い出ばかり浮かんできて、少しひるむが髪を切る使命感を背負ったハルは、焼きそばをちびちび食べつつそのまま小一時間美容院探しに没頭した。


纏わりつくような暑さの昼下がり、ハルは代々木駅近くの美容院~carambola~の前に立っていた。真っ黒な長い髪は家を出る前にブラシでとかし、ほとんど使われることなくポーチに眠っていたチークとグロスをつけた。服は持ち合わせの中で一番大人びた印象を与える黒のサマーニットにデニムのショートパンツ、靴は去年買った白いスニーカー、そして肩かけのポシェット。お出かけ自体が久々だったハルは、いつもよりおしゃれをしている自分に少し恥ずかしくなる。中央についている木製風のドアを挟むようにして左右がガラス張りになっている店内を少し覗く。小さなカウンターで作業をしているのはcarambolaのオーナーであり、店長でもある廣澤悠だ。ハルが数時間のネットサーフィングの末ここに決めたのはもちろん女性のボブカットやショートカットを得意としているということもあったが、人気美容師のそれに比べるとやや流行に乗りきれていない廣澤のリール動画の撮り方に安心感を覚えたことも決め手となった。独立して1人で店を切り盛りしているのだから、信頼されているベテラン美容師なんだろうという印象を受け、価格体は少々上だったがその日の日付が変わる前に予約をいれた。


「今日は髪を切りにきただけ。緊張する必要なんてないし、薦められたオイルを買う必要はもっとない。」

そう心の中で唱えドアを開けようとすると店の方から扉が開き、

「こんにちは!ご予約の、、、高見澤、ハルさん?」廣澤が現れる。

ハルの抱いた第一印象は「美容師さんなのに普通の髪の毛なんだ。ロン毛でパーマのかかってるチャラおじオーナー想像してたな。」だった。

「あ、はい。3時に予約してます。」廣澤を見上げるようにして返事をすると目がぱっちりと合い頬が熱くなるのを感じる。

「暑かったよね、飲み物はどうします?冷たいウーロン茶かコーヒーもありますよ。缶ビールも小さいのだけど冷えてるの、用意してます。」

小さな店内で廣澤がハルを席に促しながら尋ねる。

「え、、ここ美容院だよね。なんか飲み物の注文始まってる、、。でもビールもあるって、私ちゃんと大人っぽくみえてるんだ。」心の中でドギマギしながらウーロン茶をお願いしますと呟くように返す。

「りょうかい!ちょっとお待ちくださいね。」カーテンで仕切られている向こうの空間に廣澤が入っていき、カラカラと氷をグラスにいれる音が聞こえてくる。

正面の鏡にはハルの体がすっぽりと映りだされている。「よかった、顔、赤くなってないしチークもいい感じだ。」少し落ち着きを取り戻したところに廣澤がグラス片手に戻ってくる。コルク素材のコースターを鏡の前の台にするりとのせ、静かにグラスを置いた廣澤の手が白く、筋張っていて、その一連の数秒にも満たない動作をみてハルの胸が小さくトクッと鳴った。

「あの、ここ、普通の美容室ですよね。コーヒーとか、ビールとか、、。すみません。私、美容室久しぶりで、、」

ハルがそう言うと、廣澤は口を大きく開けて笑った。左側の八重歯と垂れた目尻が廣澤をより一層若くみせている。

「これは、そうだな、ウェルカムドリンクって感じです。暑い中、来てくださるお客様に感謝の気持ちを込めてね。ビールを飲まれる方も多いですよ。」

「そうだったんですね、ありがとうございます、冷たいお茶、おいしいです。」

廣澤の屈託のない笑顔を見てハルはもうすでにここにして良かったと思い始めている。


「DMからご予約頂いたときはボブカットにしたいってことだったかな?どのくらいまで短くしたいとか、イメージ写真とか、ありますか?」

あれだけinstagramで画像を漁ったハルだったが、慣れないせいもあって美容室で髪を切るときにはイメージのモデルさんを見せるのが一般的だということをすっかり忘れていた。

「インスタでたくさん画像見たんですけど、ぼんやりとしかこうなりたいっていうイメージがわかなくて、でもとにかく短く、軽くしたいです...」

「うんうん、じゃあ、、、これ最近ボブカットにされたお客様の写真なんだけど、これとかどうかな?もっと夏っぽくミニボブってなるとこんな感じもありますね!高見澤さんだったら前髪薄くつくっちゃってミニボブ、とか可愛くイメージチェンジできるんじゃないかな。もし短くしすぎるのがあれだったら肩すれすれのラインでカットして大人っぽく仕上げていくこともできますよ。」

何枚も参考画像を見せながら提案をする廣澤に相槌をうちながらも

「前髪つくって、ミニボブ、いいな。それやってみたいな。」とハルの決心は固まってきていた。

「あの、じゃあ、短めのボブで、前髪もお任せでお願いしたいです。」

「かしこまりました!ロングからバッサリ切るってなると不安もあるかもしれないけど任せてくださいね。毛先は顎より少し上に仕上げて、若干前下がりにカットするような感じかな。前髪も軽めにつくって顔周りに自然なラインでるように、、って感じになるかな?大丈夫そうですか?」

廣澤がハルの髪を手で触れながら、仕上がりイメージを確認する。

「それでお願いします。」

当初感じていた不安や緊張は風船のように萎んでいき、ハルからやっと笑みがこぼれた。




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