交わる平行線
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年6月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
最近、K警察署管内では、婦女暴行事件が多発している。ここ半年くらいの間に、5件近い事件が起きていて、被害者は、いつも、女子高生たちであった。
運がいいというか、皆、
「暴行はされているが、殺されていない」
ということが、不幸中の幸いということであろう。
さすがに、
「同じ管轄内で、半年に5件というのは多い」
しかも、まわりの管轄内では一件も起こっていないというのだから。
「K警察署を狙い打っている」
と言われても仕方がない。
そうなると、
「犯人は、K警察署に、何か恨みのある人間」
ということで、
「過去の暴行犯の傾向」
と、相手が女子高生ばかりだということで、
「少年犯罪」
と、
「変質者関係の犯罪」
という両行の見方から、考えていたのだった。
「少年課」
であったり、
「生活安全課」
などの協力を得て、犯人検挙に、刑事課としても、必死になっていた。
「街中のパトロール」
というのも重点的に行った。
これまでの5件の暴行というのは、最初と最後だけ、結構時間が離れていて、
「2件目から4件目までの3件の事件」
というのは、結構短い期間に行われていたのであった。
それこそ、
「1か月の間に、2,3件」
というペースで、
「このペースだったら、どこまで犯罪が起こるのか?」
というほどで、警察とすれば、
「これほどの面目が立たないことはない」
というほどで、
「署長が自ら、記者会見を開かなければいけないくらいだ」
ということであった。
しかし、実際に、記者会見を開いても、
「何も発表できるだけのことは何もない」
ということで、
「開いても、どうしようもない」
という意見と、
「とにかく、署長が、マスゴミの前に現れるしかない」
という意見とに、分離していた。
「状況は分かっていたり、犯人の目星がついている」
という場合であったり、逆に、
「まったく何もわからない」
ということであれば、
「記者会見を開く必要がある」
といえるだろう。
もし、何もわかっていないのであれば、
「とりあえず、捜査はしている」
という、
「やってますアピール」
というものが必要になるだろう。
しかし、
「わかっているとしても、中途半端であったり、状況証拠としても、推理できるところまで行っていないほどの、つまりは、中途半端な状態」
ということでは、
「記者会見というものを開いてしまうと、マスゴミに責められて、それにこたえられないということになる」
ということになり、
「警察の恥をさらす」
ということになる。
これを、
「とりあえず」
などということで記者会見を開いてしまうと、
「話すべきではない」
ということまで口走ってしまったりして、世間を混乱させるだけということになるのである。
今回は、
「犯人についての手掛かり」
というのがまったくわかっておらず、
「記者会見を開いても、警察としては、責められて終わり」
ということで、
「会見を開くべきか?」
というところからが、問題になっていた。
ほとんどの署員は、
「そんなことをしても、無駄だ」
ということをいう。
しかし、中には、
「警察が発表することで、警察に協力するという証言が出てくるかもしれない」
という意見もあったのだが、結局は、上からの力で、
「記者会見は行わない」
ということになった。
そうなると、大変なのは、捜査員。
実際に事件が起こり、社会問題になっているのに、
「警察が何も発表しない」
ということでは、捜査員に張り付くしかない」
ということであるが、こうなると、
「実際の捜査の最中に、マスゴミの人がいることで、捜査が進まない」
ということになったり、
「マスゴミの連中が、捜査の邪魔になることで、却って、危険を招く」
ということになりかねないのであった。
警察としては、そんな、
「マスゴミの連中」
まで、守りながらの警備となると、気の使い方というのが、ハンパではないということになるだろう。
そんなマスゴミの中で、本当であれば、芸能関係の記事に強い雑誌社である、
「幻影社」
という会社の記者で、
「清水」
という記者がいた。
彼は、年齢的には、30歳くらいであろうか。
「まだまだ若手」
という記者であったが、元々は、
「小説家志望」
だった。
今でも、小説は書き続けていて、出版社のコンクールになどは、毎回のようにノミネートしているようだった。
最初のころは、
「SFや、オカルト系の小説が好きで、よく書いていたが、途中から、ミステリー小説を読むようになった」
ということであった。
それは、ちょうど中学時代に、昔の、
「戦前戦後」
と呼ばれる時代くらいに流行っていた、
「探偵小説」
と呼ばれるものが流行っていた時代だった。
テレビでも、映画でも、上映されていて、そのおかげで、原作も結構売れたものだった。
おかげで、今では、その作家を冠した名前の、
「コンテスト」
というものが毎年行われるようになっていて
「何度も同じ作品がテレビ化されることで、前の作品との違いを世間でも話題にしているのであった」
もちろん、
「探偵を誰がやるか?」
ということが話題になり、
「最初は数人がノミネートされていたが、次第に絞られてきて、二大巨頭と呼ばれるようになった」
ということであろう。
しかし、同じ話のはずなのに、監督や脚本家が違っただけで、まったく違う話になることだってある、
もちろん、作家に許可は得てのことであろうが、
「結構、バラエティに富んだ作品にさせてくれる」
というような作家からすれば、
「コアなファンからすれば、やりすぎに見える」
といってもいいだろうが、
「許容範囲が大きければ大きいほど、大衆受けする」
ということで、
「何度も、そして、たくさんのバラエティに富んだ作品」
というものが、映像作品になるというものだ。
しかし、
「いくら作家の許可を得ている」
とはいえ、
「作家の本来描いてほしい」
という内容を把握できずに作った映像作品は、
「台無しになる」
というものである。
小説家の中には、
「徹底的にこだわりがある」
ということで、
「映像作品は、これ一回限り」
という形にしている人もいるのに、許容範囲の広い作家などは、
「時代背景」
も、
「事件が発生した場所」
というのも違っていて、
「本来であれば、時代背景も、舞台になっている場所が違うともなると、せっかくの本筋であるトリックは、市トーリー展開ですら、狂ってきている作家もいる」
というものだ。
特に、小説作法を映像化することで変えてしまうということになると、
「登場人物の設定」
であったり。
「準主役」
といってもいいであろう
「登場人物が登場しない」
ということになる。
といってもいいだろう。
小説の書き方には、
「主人公を中心」
とした、
「一人称的見方」
というものでの書き方、
であったり、
「三人称ということでの書き方」
というものがあったりする。
特に、戦前時代くらいの小説では、
「主人公である、私というものを中心にした、語り口調でのストーリー展開になっている場合。登場する探偵は、あくまでも、主役ではなく、そのために、
「探偵が最後の方にしか登場しない」
ということになるのだが、そのシリーズは
「あくまでも、探偵が主役」
ということであり、
「事件の最初から、いつものように、探偵を登場させる」
ということから、
「探偵の活躍ストーリー」
ということになると、
「準主役」
の人物の登場場面を極端に減らしたり、へたをすれば、
「まったく出てこない」
ということになるといってもいいだろう。
それが、
「探偵小説の黎明期」
と呼ばれる時期の話なのであろう。
だから、その時代のテレビ化した探偵小説は、
「ドラマを見るつもりであれば、映像作品は先に見る」
ということにしている、
原作を読んでから、映像作品というものを見ると、
「想像の中の映像の答え合わせ」
ということでいいのだろうが、逆をしてしまうと、
「映像を見ることで、想像力は限られてしまい、せっかくの想像の羽ばたくものがないということで、映像よりも、却って幅の狭いといってもいい、平面の世界にしかならない」
ということであった。
しかも、自分が読んでいる小説は、
「戦前戦後」
という、
「今とはまったく違う世界」
である。
「町の雰囲気」
も違うだろうが、
「まったく知らない世界ということで、想像をたくましくできることが楽しみであるのに、それを考えると、映像化というのは、想像をたくましくすることができない」
という短所をはらんでいるということで、
「映像を見ることで、想像力の幅が狭まる」
と考えると、
「俳優がよほどうまくやらないと、映像作品はひどいものになる」
といえるだろう。
そして、
「原作というものは、小説であり、映像作品の元になる」
というものは、
「脚本」
というものである。
「脚本」
というものは、
「小説」
というものとは
「まったく違うものだ」
ということである。
特にシナリオの場合は、
「描写に関しては、あまり詳しく書かない」
と言われていて、逆に、
「小説というものは、状況描写をしっかり書き込まなければいけない」
と言われている。
だから、逆に脚本で、
「状況描写を書きすぎると、まずい」
ともいわれるのだ。
それは、
「脚本と小説」
とでは、
「読む人が違う」
ということである。
「小説の場合は、あくまでも、読者が相手であり、脚本というのは、監督であったり、役者が読むものだ」
ということである。
だから、
「シナリオの場合に、描写が強いと、
「脚本家色の強い作品になる」
ということで、本当であれば、役者の個性を使って表現するはずの作品が、脚本家の考える、
「色」
というもので、着色されるということになるのであった。
だから、脚本家は、
「描写をオーバーには書かない」
というのが定説になっている、ある程度だけ書いておけば、あとは、役者が意識して、そして、それを監督がコントロールするというものである、
逆に小説というものは、
「あくまでも読者が想像できるような内容にならなければいけない」
ということで、
「できるだけ、描写をはっきりと描くということで、読者の想像力を掻き立てる」
ということになるのだ。
だから、
「小説などの書かれた本」
というものと、
「脚本などにおける台本」
というものは、最初からまったく違うもので、
映像作品の中では、
「原作があって、それをシナリオ化する」
というものもあれば、
「原作というものはなく、脚本家オリジナルというもので、脚本を書く」
というものの、
「どちらが難しいか?」
と言われることがあるというが、
「原作があった方が楽であろう」
と思われるかもしれないが、実は、
「オリジナル作品の方が楽だ」
といえるだろう、
それは、それだけ、
「脚本と小説というものが違う」
ということであり、
「似て非なるもの」
といってもいいのではないだろうか?
「今から30年ほど前」
という、いわゆる、
「世紀末に近い」
という時代に、
「トレンディドラマ」
などと呼ばれるドラマが流行ったことがあった。
恋愛ドラマやコメディなどが多かったが、その頃は、
「脚本家オリジナル」
というものが多かった。
それまでは、
「小説が原作」
というのが多くあり、その間にトレンディドラマっと呼ばれるものが存在していて、さらに、それ以降は、
「アニマや漫画の実写化」
というものが結構増えてきたことで、一種の、
「一時代の分岐点」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「昭和末期から、世紀末の時代」
というと、社会も大きく変化した。
特に、
「バブル経済から、その崩壊」
などという時代は、
「まったく物が見えない時代」
ということであり、そもそもが、
「バブル」
という、
「実態のないものだ」
といってもいいだろう。
さらに、時代として、昨今ドラマなどもパターンが変わってきている中において、いまだに変わらない、
「刑事ドラマ」
であったり、
「医療もの」
というのは、
「コンプライアンスなどの問題」
であったり、
「ストーカー問題」
という、新しい時代の話が浮かび上がっているといってもいいだろう。
世の中というもの、
「目に見えないところで犯罪が起こっている」
と言っていいかもしれない。
「あなたの近くで、誰か、最近見なくなった人、いないですか?」
というようなセリフを、昭和の頃には、よく言われたという話を聞いたことがある。
実際に、
「蒸発」
などという言葉で言われたりして、捜索願を出されることも多かっただろう。
時代によっては、さらに昔であれば、
「神隠し」
などともいわれていた。
「時代も違えば、同じような、行方不明者」
などであるが、
「蒸発」
と
「神隠し」
というものでは、基本的に内容が違うといってもいいだろう。
もちろん、その時代のすべてが、そうだとは言えないだろうが、基本的なこととして、
「蒸発」
というのは、
「自分から、何かの理由で姿を消す」
という場合である。
例えば、借金があり、借金取りから姿を消したり、精神的な苦痛などから、
「家に帰りたくない」
などという理由などによって、身を隠すことをいうのだ。
逆に、
「神隠し」
というのは、別名として、
「かどわかし」
といってもいいだろうが、本人の意識よるものではなく、
「誰かに連れ去られる」
ということであったり、
「何か、超自然的な力が働いて、瞬間的にどこかに移動したり」
というような場合をいう。
つまりは、
「人が行方不明になった場合、
「自分の意志で姿を消す」
という場合を、
「蒸発」
といい、それ以外を、
「神隠し」
「かどわかし」
などというのであろう。
「それ以外」
という中には、
「人をさらうことによって、人質などにとったり、さらってきた人を利用して、金を取る」
というようなことをした場合は、
「人さらい」
であったり、
「拉致」
ということになるのだろう。
「蒸発」
というのは、結構、昭和の頃に言われていたものであったが、ただ、この、
「蒸発」
というものというのは確かに、
「本人の意思に基づいて」
ということであるが、
「その本人の意思というものを利用して、誘拐であったり、拉致ということをしていた」
ともいわれるが、その場合は、
「他の、関係ないと思われた事件が解決すると、実はその中に、蒸発した」
と思われる人が、
「事件に絡んでいた」
ということも言われてきた。
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