君の声が聞こえない朝
須藤淳
第1話
朝のホームには、冷たい空気が漂っていた。貴弘は文庫本を片手に、次の電車を待っていた。
「おはよう!大好き!」
突如響く明るい声。驚いて顔を上げると、弥生が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「……おはよう」
彼女は駆け寄ってきて、いつものように隣に並ぶ。
「今日も一緒だね!」
そう言って、電車が入ってくるホームの端でわくわくした様子で足踏みする。
電車が到着し、二人は並んで車内へ乗り込んだ。
貴弘は勉強や部活に忙しく、恋愛に興味がなかった。
知らない子に告白されても「はぁ、どうも」と受け流すだけ。
しかし、毎日同じ時間に彼女は現れ、変わらず「おはよう!大好き!」と告白する。
最初はうるさいと感じたが、いつの間にかそれが当たり前になり、彼女の声を待つようになっていた。
ただ、彼女は「好き」と言うが、「付き合ってほしい」とは言わない。
だから貴弘も「おはよう」と「さよなら」しか言わず、いつも彼女を残して電車を降りていった。
しかし、ある日。
「バイバイ」
いつも元気すぎるくらいの彼女が、その日は寂しげにそう呟いた。
ほんの少し気になったが、深く考えず、そのまま別れた。
それから数日、彼女の姿を見かけなくなった。
最初は体調を崩しているのかと思ったが、二週間が過ぎると不安になった。
制服の特徴を頼りに友人に聞くと、彼女が通っていたのは自分の学校よりずっと手前の駅にある中学校だと知る。
勝手に同じ学年か、一つ下くらいだと思い込んでいた。
それに、最初に自己紹介してくれた“やよい”という名前以外、貴弘は彼女について何も知らなかったことに気づき、ショックを受けた。
放課後、彼はその中学校へ向かった。
当然、急に会いに行ってすんなり彼女に会えるわけもない。
彼は諦めきれず、毎日中学校の周りをうろついたが、やがて不審者扱いされ、教員に呼び止められ、焦って逃げる。
それでも彼女の姿を探し続けた。
彼女の中学校の最寄り駅の改札近くで、彼女が現れるのを待つ。
だが、会えない。
そんなある日。
「もしかして、弥生ちゃんを探していますか?」
貴弘の前に現れたのは、中学生の少女だった。
「彼女のことを知っているのか?!」
「弥生ちゃんは、お父さんの仕事の都合で引っ越しましたよ。」
「どこに?!」
「言うわけないじゃないですか。気持ち悪いストーカーに。」
少女の冷たい言葉に、貴弘は息を呑んだ。
「あまりしつこいと、あなたの学校に訴えますよ。」
そう言い残し、少女は電車に乗り込んでいった。
次の日、貴弘は昨日会った少女を駅で待っていた。
「…本当にしつこいですね。」
「ごめん。もう二度とこんなことしない。もしやよいさんと連絡が取れるなら、この手紙を渡してほしい。お願いします!」
年下の少女に深々と頭を下げ、手紙を差し出す。
「弥生ちゃんの新しい住所知りません。」
冷たく言い放ち、その場を去ろうとする少女。
「連絡だけでも取れるなら、伝えてほしい。ずっと好きだと言ってくれていたのに、向き合わずにいたことを後悔していること。僕もやよいさんのことを好きだったと!」
彼の必死な声が響く。
少女はちょうど入ってきた電車に乗り込み、振り返って侮蔑の笑みを浮かべる。
「…今さら?」
無情にも、ドアが閉まり、貴弘は立ち尽くす。
電車の中、少女はスマホの画面を見つめる。
待ち受けには、弥生と自分の笑顔の写真。
「やよちゃんは、あんなやつに会うために毎朝遅刻ギリギリだったんだね……。やよちゃんに、会いたいよ……」
一方、貴弘は放心したまま電車に乗る。
弥生が毎朝やってきていた駅のホームに降り、ふと顔を上げた。
目の前には、弥生がいつも立っていたあの場所。今は誰もいない。
『おはよう!大好き!』
目を閉じると、彼女の笑顔を思い出す。
貴弘は、渡せなかった手紙を口元に持っていき、誰にも届かない言葉を、小さく呟く。
「僕も好きだよ……」
電車のドアが背後で閉まり、静かに走り出す。
貴弘の手の中でクシャクシャになっていく手紙の宛名は、じんわりと滲んでいった。
《完》
君の声が聞こえない朝 須藤淳 @nyotyutyotye
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