第2話 自由落下の取扱説明書(非同梱)

 風が、俺に襲いかかってきた。


 それは木々を揺らす穏やかなそよ風でもなく、冬の夜の冷たい風でもない。それは実体じったいのある力、俺の皮膚を削り、涙が形になる前に吹き飛ばし、叫び声を上げるのを阻むほどの暴力で肺を満たす空気の壁だった。身体の隅々までが、この途方とほうもない加速に抗議している。混乱の中、稀に見る明晰めいせきな瞬間、俺の心はただ一つの思考に、耳をつんざくような落下音よりも大きく響く一つのマントラに集中していた。


 老いぼれ《おいぼれ》の神め、臭くて、無能むのうで、パートタイムの誘拐犯ゆうかいはんで、俺の殺人の設計せっけい者め!


 怒りが、高所の寒さの中で俺を温める炎のようだった。一体どんなサディスティックで無秩序むちつじょな神が、「選ばれし者」を衛星でさえめまいを起こすほどの高さから投げ落として世界を救わせるというのか?

(ポータルはなかったのか? 地面に輝く魔法陣は? 眠っている間に穏やかな移行は?)

 違う! どうやら、神聖しんせいな移動手段は『人間弾道投射にんげんだんどうとうしゃ』らしい。


 俺は自由が欲しかった! 自分の運命を選びたかった! だが、俺の身勝手な妄想の中に、「異世界の海中に肉と骨の隕石いんせきとなって死ぬ」という選択肢はリストになかった! これは自分の運命を選ぶことじゃなくて、俺の運命が『タイキのパンケーキ、本日のスペシャル』と選ばれることだった。こんな死に方は屈辱くつじょくの極みだ。兄の結婚が一年以上続くかどうかも見届けるチャンスもなかったし、気になっていた新作RPGをクリアするチャンスもなかった。なんて無駄なんだ!


◇◇◇


 俺の神聖しんせいな怒りは、風景の変化によってさえぎられた。俺の真下、無限の青い海はもはや抽象的ちゅうしょうてきな絵画ではなかった。それは近づいてくる。速い。ものすごく速い。怒りが後回しにしていたパニックが、全力で戻ってきた。その時、俺はそれを見た。


 白い点。小さな船が、不自然なほどの速度で波を切り裂いている。希望という、愚かでしぶとい感情が胸に芽生えた。近づくにつれて、人影が見えてきた。二人だ。


 一人は、2000年代の海賊漫画の表紙からそのまま出てきたような男だった。重力と常識を無視した逆立さかだった白髪、水色と白のストライプシャツ、そして笑顔……サメのように尖った歯が多すぎるような笑顔だ。彼は俺の状況を危険なほど楽しんでいるようで、まるで俺が個人的な花火大会のようだった。


 彼の隣には、女がいた。そして「隣に」と言う時、彼女がそこにいることは間違いないのだが、彼女の服は休暇を取っているとでも言いたげだった。辛うじてタンクトップと呼べるほどの同じ色のトップスと、服というよりは概念に近い短すぎるショートパンツを身につけていた。その体は引き締まっていて日焼けしており、それは印象的だったが、「普通の人」としての俺の頭はただ一つだけ考えていた。

(一体誰がこんな格好でヨットに乗るんだ? この世界には航海のドレスコードはないのか? それに日焼けの危険は?)


 懐疑的かいぎてきな俺の心は、彼らが俺を助けるはずがないと叫んでいた。せいぜい、好奇心から俺の遺体いたいを釣り上げるのが関の山だろう。だが、小さくて愚かな希望の炎が囁いた。

(もし助けてくれたら?)


 その時、俺は気づいた。この日の空中ショーはまだ終わっていなかったのだ。


 俺の右側から、気になる迎撃げいげき角度で、別の現象が迫ってきていた。浮遊ふゆうする紫色の砂利じゃり軌跡きせきが、青い空を背景にアメジストの彗星すいせいのように動いている。その空飛ぶ石の足場の上には、さらに二人の人間がいた。


 一人は、燃えるような赤毛を野生的なポニーテールにまとめた女だ。彼女は前方に立ち、腕を広げ、顔には獰猛どうもうな笑顔を浮かべていた。まるで純粋な意志の力と物理法則への完全な無礼ぶれいさで、石を「操縦」しているようだった。


 その後ろで、命がけでしがみついているかのように(実際そうだったのだが)、金髪の男がいた。彼の長いスタイリッシュな前髪が片目を覆っている。「クールでミステリアス」に見せるつもりだったのなら、みじめな失敗だ。彼の唯一見えている目は純粋な恐怖で大きく見開かれ、口は音のない叫びで開いており、俺にはそれが精神的なレベルで感じられた。


(ついに! 死にかける状況に適切なパニックで反応する奴がいた!)

 金髪の怯えた男に、俺は奇妙で即座そくざに友情を感じた。


 状況は「衝突しょうとつによる確実な死」から「魔法の岩との空中衝突による確実な死、または二組の奇人変人きじんへんじんに奪い合われることによる死」へとエスカレートしていた。サメの船は下で加速していた。彗星の女は横から迫ってきていた。俺はもはや落下する飛翔体ひしょうたいではなく、奇妙な競争の賞品だった。


 異世界での初日、俺はすでに人間ビー玉と化していた。


 あの神は、俺を死に投げ込んだだけではない。俺の死をスポーツイベントに変えたのだ。次に会った時は、あの老いぼれめを必ずぶん殴ってやる。もし来世があるなら、まず魂管理課に正式な苦情をもうてるのが俺の最初の仕事になるだろう。


 水面はもう十分に近く、個々の波が見えるほどだった。サメ男の笑顔はさらに大きくなった。石の彗星は数秒の距離まで迫っていた。


 俺の叫び声が、ついに風に打ち勝った。


――――――――――――――――――

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