第50話 大女将の想い

桜月庵の奥座敷。障子を開けると、庭の桜の木がまだ淡い若葉をつけて揺れていた。

 美咲は、椿大女将に呼ばれ、一人でその部屋を訪ねていた。


「お入りなさい、美咲さん」

 柔らかな声。けれど、その眼差しには長年店を守ってきた厳しさも宿っている。


 美咲は正座をし、静かに頭を下げた。

「大女将、お呼びいただきありがとうございます」


 椿は一呼吸置いてから、机の上に古びた帳面を置いた。

「これはね、私が若い頃から書きためてきた菓子の記録帳。……あなたの母・春香さんも、何度かここを開いたのよ」


「え……?」

 美咲は思わず顔を上げる。


「春香さんは桜月庵に来ると、私の横で熱心に菓子を見ていた。『和菓子は人の心を和ませるものだから』とね。……あなたの手の動きには、その血が流れている」


 美咲の胸が熱くなる。

自分の記憶には存在しない母の姿を、椿の言葉が静かに蘇らせてくれた。


 椿は続けた。

「美咲さん。あなたには、この店の未来を担うだけの力がある。……ただし、それには覚悟が必要よ」


「覚悟……」


「ええ。和菓子は技術だけではなく、心そのものが映し出されるもの。迷いや恐れを抱いたままでは、本当に人の心に届く菓子は作れない」


 美咲は拳を膝の上でぎゅっと握った。

思い浮かぶのは、悠人の姿。彼の言葉、彼の支え。

そして母の手紙──『どんな未来でも、この子が笑顔でありますように』。


「……私、覚悟を決めます。母の思いを継いで、この場所で菓子を作りたい。……そして、悠人さんと一緒に歩んでいきたいです」


 思わず口にしてしまった最後の言葉に、美咲の頬が赤く染まる。だが椿は驚くどころか、静かに目を細めた。


「そう。ようやく素直になれたのね」


「えっ……」


「悠人はね、あの事故以来ずっと心に傷を抱えてきた。でも、あなたと出会って少しずつ変わっていった。……あの子の笑顔を取り戻せるのは、あなただけかもしれないわ」


 美咲の胸に、温かいものが満ちていく。

大女将の言葉は、祝福にも似ていた。


 障子越しに差し込む春の光が、二人を包み込む。

美咲は深く頭を下げ、はっきりと答えた。


「はい。必ず……応えてみせます」


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