第48話 記憶を揺さぶる名

数日後の夕刻。桜月庵の奥座敷に、客人が一人通された。

 老舗の茶人・藤崎。椿とも旧知の間柄で、和菓子への造詣も深い人物だ。


「久しぶりだね、椿さん」

「本当に。ようこそお越しくださいました」


 穏やかな挨拶が交わされる。藤崎の眼差しは、すぐに美咲の方へ向けられた。

「この方が……春香さんの娘さんか」

「はい、佐藤美咲です。桜月庵で修行をさせていただいております」


 美咲は深く頭を下げた。藤崎の目は温かく、それでいてどこか鋭い。

「母上の春香さんは、私にとっても特別な方でした。菓子の味に心を込める姿勢を学ばせていただいたのです」


 春香の名を聞いた瞬間、美咲の胸にざわめきが走った。

 ──お母さん。記憶の奥底に埋もれているはずの響きが、藤崎の声によって呼び覚まされる。


 その日のために、美咲は新たな試作菓子を用意していた。

 春の夜桜を思わせる淡い紫色の練り切りに、桜の葉を刻んだ餡を忍ばせたものだ。


 藤崎はそれを口に運び、しばし目を閉じた。

「……確かに春香さんの血を引いている。けれど、あなたは春香の再現ではない。美咲さん、これはあなた自身の物語を語る菓子だ」


 その言葉に、涙がこぼれそうになる。

「私……母のことをほとんど覚えていません。でも、作るたびに胸の奥が温かくなって……きっと、その記憶がどこかに残っているんだと思います」


 藤崎はうなずいた。

「記憶とは形ではなく、心に染み込むもの。春香さんが残したのは、きっと“生きる甘さ”なのだろう」


 見守っていた悠人は、美咲の横顔をじっと見つめていた。

彼女が記憶を探りながらも、今を必死に生きようとする姿。その姿に惹かれずにはいられなかった。


 帰り際、藤崎はそっと美咲に言った。

「あなたが迷った時は、母のように“人の笑顔を思い浮かべて”ごらんなさい。それが、あなたの答えになるはずです」


 藤崎の背中を見送りながら、美咲は胸に熱を抱いていた。

──私は、母を知らない。でも、母が信じた道を、私も歩けるだろうか。


 そんな想いを抱いた時、悠人が隣で囁いた。

「美咲。記憶がなくても、お前はちゃんと春香さんの娘だ。……俺が保証する」


 その言葉に、美咲の心は震えた。

母との絆を求めながら、今は悠人の存在が彼女の支えとなっている。

その確信が、静かに芽生えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る