第42話 母への扉

夜桜の下で涙をこぼしたあとも、美咲はしばらく悠人の隣に立ち尽くしていた。

花びらが絶え間なく舞い落ち、足元の川面に散り敷かれていく。まるで過去と現在をつなぐ橋のように。


「……不思議です」

美咲がぽつりとつぶやく。

「今までは、記憶を思い出そうとするたびに苦しくて。でも、悠人さんと一緒にいると、少しずつ心がほどけていく気がします」


悠人は微笑んで、美咲の肩から手を離した。

「それは、きっと春香さんがそう願っているからですよ。あなたが苦しむのではなく、安心して思い出せるように」


「母が……」

美咲は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


その時、ふとポケットの中の手帳を思い出した。母・春香が残した記録。

隙間からこぼれ落ちた手紙には、美咲を産む決意が綴られていた。


「悠人さん……あの手帳、母が書き残したものですよね。まだ全部を読み切れていなくて」


「焦らなくていい。けれど、もし勇気が出たなら、続きを一緒に見ませんか」


悠人の提案に、美咲は小さくうなずいた。

「はい。……でも、怖いんです。母が私に何を残そうとしたのか、知るのが」


「怖いと感じるのは、それだけ大切だからです。けれど、春香さんは必ず、あなたが前に進めるように言葉を残しているはずです」


美咲は悠人の目をまっすぐ見つめた。その瞳には揺るぎない優しさがあり、彼が兄としても、人としても、ずっと支えてくれる存在であることを強く感じる。


「……一緒に、読んでください」

「もちろん」


その夜、美咲は手帳を胸に抱きしめながら眠りについた。

夢の中で、どこか懐かしい声がした。


──美咲、あなたはきっと、自分の道を見つけられる。


目が覚めた時、涙で頬が濡れていた。

しかし、心は不思議と軽かった。


朝の光が桜月庵の庭を照らす。

いよいよ、美咲は母の手帳を開く決意を固めようとしていた。

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