第24話 桜薫の記憶

母の手帳を閉じた美咲の指先に、まだ微かな震えが残っていた。

「……母さんは、ちゃんと、私を望んでくれてたんだね」

ぽつりとつぶやいたその声は、手帳に書かれていた一字一句をなぞるように、優しくも確かな感情に満ちていた。


悠人は隣で静かにうなずいた。

「春香さんは……自分の命より、君を大切に思ってたんだと思うよ」

「……ありがとう、悠人さん。あなたが、この手帳を守ってくれたこと……本当に、感謝してる」


その日の夕暮れ、美咲は久しぶりに桜月庵の工房を訪れた。

職人たちが慌ただしく動く中、椿がひとり、作業台の奥で何やら記録帳に向かって筆を走らせていた。


「……おばあちゃん」

その声に、椿は顔を上げた。細い目元がゆるみ、優しく笑む。


「ようやく、“おばあちゃん”って呼んでくれたね」

「……ふふ、なんだかちょっと照れます」

「でも、似てるよ。春香に。あの子もね、こうやって台所の隅っこで、黙って和菓子の記録を眺めてた」


椿は棚の上から、古びた箱を取り出した。

「これ、春香が高校生のときに書き溜めた味のメモ帳。桜薫おうくん──覚えてる? あれも彼女が試作してたものなんだよ」

「……桜薫?」

「桜の葉と練乳餡れんにゅうあんを使った春先限定の生菓子。あの子の初めての創作菓子だった」


美咲はそっとページをめくり、そこに記された走り書きの文字に息を呑んだ。

「この味、私……夢で見たことがある。淡い香りと、やさしい甘さが舌の奥に残って……」


「春香の記憶が、血の中に流れてるんだね」

椿はぽんと美咲の肩に手を置いた。


「なら、あんたが再現してみたらどう? “桜薫”を。春香と、あんた、二人の味として」


目の奥が熱くなった。自分にはまだできることがある。母の記憶を、手と舌でたどりながら繋げていく。

「やってみます。私の、“はじまり”として」


それから数日後──


美咲の手によって再現された「桜薫」は、店の試作品として職人たちにふるまわれた。

椿は一口食べると、静かに目を閉じた。

「……あの子の味、だけど、それだけじゃない。あんたの手が加わってる。これは、美咲の“桜薫”だね」


評価は上々だった。

「うちの若女将にどう?」と笑う職人たちに、美咲は苦笑いしつつも、ほんの少しだけ誇らしげに笑った。


そしてその日の閉店後。椿がぽつりと言った。


「春香がいなくなってから、ずっとどこか寂しかった。でも、ようやく……“娘”が帰ってきてくれたみたいだよ」

美咲は黙って椿のそばに立ち、肩を寄せた。

「……帰ってきました。私の場所に」


──母の手から、祖母の手へ。そしていま、自分の手に託された想い。

和菓子という小さな宇宙の中で、美咲はようやく“自分の役目”を見つけ始めていた。

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