第6話 桜の記憶

数日後の朝、美咲は再び新幹線に乗って京都へと向かっていた。


座席に身を沈めながら、車窓を流れる景色をぼんやりと眺める。

頭の中では、東京で恵子から聞いた話が何度も繰り返されていた。


「あなたの本当の名前は『さくら』。事故のあと、あなたは一人だけ助かったのよ」


その言葉は、美咲の中に深く沈み、心の底で何かを揺さぶっていた。

恵子は涙を浮かべながらも、穏やかな声で話してくれた。


「私にできることは、あなたを守ることだけだったの。だから、本当のことはずっと言えなかった」


その苦しみを思えば、恵子を責める気持ちは微塵もなかった。


むしろ、美咲は感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。


記憶を失った幼い自分を見つけ、愛情を注いで育ててくれた。

その優しさがあったからこそ、今の自分があるのだ。


だが、心のどこかで、ぽっかりと空いた穴が疼くのも確かだった。


(私の記憶の中には、本当の家族がいる。お父さん、お母さん、そして…お兄さん)


京都駅に降り立ったとき、胸の奥で何かがじんわりと熱くなった。

懐かしさのような、切なさのような感情。

そして、もう一度会いたいという強い想い。


悠人。


再会したときは、名前だけを告げられただけだった。

でも、今は違う。

美咲──いや、“さくら”としての自分を、少しずつ受け入れ始めている。


改札を出たところで、悠人の姿を見つけた。

彼は以前と同じ、白い作務衣姿で静かに立っていた。

目が合った瞬間、美咲の胸がぎゅっと締めつけられる。


「お久しぶりです、悠人さん」


「来てくれてありがとう、さくら──いや、美咲さん」


どちらの名前で呼ぶべきか、悠人も迷っていた。

だが、美咲は微笑んで頷いた。


「“さくら”で、いいです。まだ完全に思い出してはいないけれど──、そう呼ばれると、心が落ち着くんです」


その言葉に、悠人の目にうっすらと涙が浮かんだ。


二人は並んで歩きながら、桜月庵へと向かった。

道すがら、美咲は悠人に問いかけた。


「私たちの家、どんなところだったんですか?」


「静かな郊外にあって、庭には大きな桜の木があった。春になると、それは見事で…お父さんが“さくらの名前はこの木から取ったんだ”って、よく言ってたよ」


「…覚えてないけど、桜って聞くと心が温かくなるんです」


「きっと、心の奥に残ってるんだよ。大事な記憶は、忘れたようでいて、消えてはいない」


桜月庵に到着すると、店内にはほんのりと甘い香りが漂っていた。


「少しだけ、案内したい場所があるんだ」


悠人は美咲を店の奥に連れていった。

襖を開けると、そこには家族の写真が並ぶ小さな祭壇があった。


「ここが、両親と──桜子のための場所です」


桜子という名前を聞いて、美咲は少し表情を曇らせた。


「…悠人さんの、大切な人、なんですよね」


「うん。彼女は──事故のとき、君をかばってくれた。あのとき、咄嗟に庇って…それが、最後だった」


静かに頭を下げた美咲。

心の奥から、知らずに流れる涙が頬を伝った。


「ありがとう、桜子さん…私を守ってくれて…」


悠人は祭壇の前で手を合わせる美咲の姿を、黙って見つめていた。


「僕は…さくらが生きていてくれただけで、本当に救われたんだ。けれど、同時に自分を責めた。知らずに、君に惹かれてしまったことを」


美咲も同じ思いだった。

だが、それでも、今は少しずつ前へ進もうとしている。


「記憶を思い出すことが、怖くなくなってきました。きっと、私がさくらであることを、心が受け入れ始めたからだと思います」


悠人はゆっくりと頷いた。


「桜が咲く季節には、もう一度あの桜の木の下に行こう。君の記憶が戻るかどうかは分からない。でも、僕たちの絆は確かにある。それだけは、変わらない」


春の気配はまだ遠い。

けれど、美咲の心には、静かに桜が咲き始めていた。


それは、過去と現在、そして未来を繋ぐ記憶の花だった。



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