E03-05 承諾

カシアンは、ふと遠くを見るような目をした。


「父は生前、貴族社会とは異なる道を望んでいました」


「どんな道だ?」


レイヴの問いに、エルが答える。


「ノーラらしさ……っていうのかな。貴族だけが偉いんじゃない。大公家や諸侯、そしてこの国を築いてきた冒険者たちが、自由の精神を尊重しながら共に歩む未来。アドリアンが夢見た国の姿だよ」


「理想主義だな」


ばっさりと切り捨てるレイヴである。


だが、口調には冷たさはない。


その瞳には旧友を懐かしむ光が漂っていた。


甘い考えだと思う一方で、自分でも意外なほどに、この少女に興味を引かれていることに気がつく。


無論、そんなことはおくびにも出さない。


「で、俺ってわけか? 血統に頼らず、力で認められた異分子――看板としては派手だもんな」


エルは満足げにうなずいた。


「察しがいいね。最強の魔術師が隣にいるってだけで、誰も軽々しく手を出してこれないもの」


レイヴは盛大にため息を吐いた。


「……お前らなあ。俺を使って国を守ろうって魂胆はわかったが、こんな無謀な策で貴族連中に勝てると思ってるのか?」 


「思っています」


カシアンがきっぱりと答えた。


「勝てると踏んだからこそ、この計画を立てたのです」


策略家としての自信と、絶対に失敗させないという覚悟が言葉に滲む。


「……魔術師さん、引き受けてくれる?」


エルが心配そうにレイヴを覗き込む。


レイヴは首を振った。


「……事情はわかった。だが、断る」

 

「どうして?報酬は弾むし、期間もちゃんと区切るよ。戴冠式をして、しばらくはノーラの諸侯たちと均衡を保つ必要があるけど、治世が安定したら折を見て離婚する。魔術師さんは、アドリアンへの借りがあるんだよね?それがどんな借りなのかは知らないけど……」


「借りは、確かにある。内容は言えんがな」


「うん、言わなくてもいいよ。あなたはアドリアンへの借りを返せるし、わたしも助かる。ほかになにか足りない?」


怒るでも、哀しむでもない。


あくまでも冷静に問いかけてくる。


レイヴはきっぱりと突っぱねた。


「おまえって、男心ってもんをわかっちゃいないんだな。俺は、結婚ってやつを軽く扱いたくないんだよ」


エルは目を丸くする。


「えー?ただの紙切れなのに?」


「それでも誓いを立てるわけだろ。俺は自由でいたいんだ。悪いが、あいつへの借りは別の形で返す」


それこそ護衛程度なら引き受けてやってもいい。


――そんなことを考えている、少女はとんでもないことを口にした。


「……そっか、じゃあいいよ。諦める。その代わり、わたしは最強魔術師レヴィアンを倒したって吹聴するから」


「…………は?」


「この前の勝負、勝ったのってわたしだよね? 手加減されたのかもしれないけど、勝ちは勝ちだもん。だから嘘にはならない。『レヴィアンは大したことなかった』って、ちゃーんとあちこちで言って回るつもり。冒険者ギルドとかでね」


「おい……」


馬鹿馬鹿しい脅しのようでいて、実際にあった勝負結果が根拠になっているから質が悪い。 

 

レイヴは内心の苛立ちをどうにか押し殺した。


そこにエルがさらなる爆弾を落とす。


「そこの言霊獣のきみ、いいこと教えてあげる。王宮にはね、美味しいものがたーっくさんあるんだよ。パンもあるし、甘いお菓子も」


レイヴの肩に乗っていたフィロの大きな耳がぴくりと動く。


「今日はこれからクリーム山盛りのケーキを用意しようと思ってたの。一緒に来る?」


『あっ、主……パンだって……ケーキだって……!!』


フィロの声はレイヴにしか聞こえないはずだが、期待に満ちたその顔は誰の目にも明らかだ。


「おい、誑かすなって言っただろうが!」


レイヴの怒気にフィロはぴたりと黙った。


怯えるように肩で小さく丸まってしまう。


エルがすかさず言う。


「はあ……可哀想に。ちょっとお茶に誘っただけなのに。心の狭いご主人さまだなぁ」


すました顔で言われてレイヴは額に青筋を浮かべながらも言葉を飲み込む。


エルはどこ吹く風だ。


そして、真顔になってレイヴを見つめた。


「……さっきは紙切れって言ったけど、契約としての結婚にも意味はあると思ってる。ある種の盟約だもん。だからこそ、強い。……わたしを、助けてくれない?」


「強い、ね……」


レイヴは視線を海に向けた。


風が強く、潮の匂いが絡みつく。


だがその風のなかで、少女の言葉が心の奥に刺さる。


この少女は、自分の立場を理解している。


だからこそ、使える手をすべて使っているのだ。


無邪気な笑顔の裏には執念すら感じさせる。


厄介極まりなかった。


諸侯たちがこの少女を、ただの平民出身の元冒険者と侮っているなら――それは、とんでもない誤りだ。


薔薇色の瞳に浮かぶのは、ただの計算や打算などではない。 


命を賭しても成し遂げるものがある人間の眼だ。


――こいつは、本気だ。


少女の強い信念と決意が厚い氷を溶かしていく。


潮風が吹き抜け、レイヴの長髪を揺らした。


「……降参だ」


そのひと言に、エルは目を見開いた。


次の瞬間、思わず見惚れるほどあでやかな笑顔を見せる。


まさに夜明けに咲く純白の花の如しだ。


「ありがとう……!やっぱり、将を射んとする者はまず馬を射よって合ってるんだ。言霊獣は甘いもので釣れるなんて意外だったけど」


「………………」


レイヴは天を仰ぐしかなかった。


横でカシアンが、必死に笑いを噛み殺している。


この時、レイヴはまだ知らなかった。


この笑顔に、これから何度振り回されることになるのかを。


そして、契約の『ただの紙切れ』が、想像以上に重い鎖になることを。

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