E03-01 ノーラ王宮と宰相カシアン

ノーラの城は朝から騒然としていた。


「カシアンさま!エルシア殿下が……いらっしゃいません!今朝も!」


女官達の悲痛な訴えの隣で、ノーラの若き宰相、カシアンが深くため息を吐いた。


カシアンはわずか二十四歳であるが、老獪な貴族たちをも言葉ひとつで黙らせる知性の持ち主である。


朽葉くちば色の髪を束ねて垂らしており、青の瞳には冷静さが宿る。


文官の装いでも使われている布地は最高級のもので、すらりとした体躯に良く合っていた。


「……またか」


「はい……!私どもがお部屋に参りました際には、床はもぬけの殻でございました。扉には兵が控えておりましたのに、通った者はいないと申すのです……!もしや、また窓から……!?」


カシアンは扉を開けた。


薄香が漂う室内には螺鈿細工の箪笥や貝殻を嵌め込んだ鏡台が置かれ、豪奢ながらも女性向けの趣きだ。


壁紙にも柔らかな色が使われている。


この部屋は、エルが大公妃となった際に設えたものだ。


天井高くの窓からは光が差し込んでおり、その一つは大きく開け放たれている。


「あんな高い場所の窓から、どうやって出たんだ……?」


独白し、銀盆に満たされた洗顔用の水に花びらが浮かべられているのに目が留まる。


カシアンは思わず苦笑した。


「貴族らしくせよと言っても、聞かぬのだろうな、あいつは」


元来、貴族の令嬢であれば、朝の支度には大変な時間がかかる。


肌の手入れに始まり、髪を梳くのには香油をふんだんに使ってから緻密に結い上げる。


衣装はその日の予定に合わせて選ぶ。


それにも儀礼、執務、来客応対と場面に応じて幾種類も用意される。


装飾品から何から何まで変えるのだから、その度の着替えの時間は膨大だ。


まさに舞台に上がる役者さながらである。


だが、一年前に先の大公アドリアンと結婚し、大公妃となったエルはそれらすべてを馬鹿馬鹿しいと一蹴した。 


カシアンの知る限り、エルが公式の場に出たことは(出られるだけの満足な支度が出来たことは)、片手で数えられるほどしかない。


カシアンは頭が痛くなってきた。


無意識に額押さえていると、膳車ワゴンに載せられた茶器が運ばれてくる。


食後茶を運ばせてきたのは女官長のマチルダである。カシアンを認めると、頭を下げた。


「これはカシアンさま。おや……、またでございますか?」


「女官長か……。そうだ。まったく、ただの大公妃であられた頃には、まだ容認できたものを……」


「お言葉ですが、エルシア殿下はお変わりになっておりません。変わったのは周りのほうです」


低めで包み込むような声色で諭されて、カシアンは苦笑した。


一年前、エルが父アドリアンと結婚した時分には彼女の行動はこれほど問題にはならなかった。


ノーラだけでなく、どこの大陸でもそうだが、女は政務に関わることが少ない。


城の奥で妃が何をしていようと、対外的に公になることはなかったからだ。


「もともと殿下は社交の場にはお出ましになりませんでした。お衣服もお好みのままで、剣だってお振りになっていました。それをよしとされたのは、アドリアン大公閣下でございましたから」 


「……こんなことなら、もう少し矯正しておくべきだったな」


戴冠式こそまだではあるが、大公継承者となった今はこれまでのようにはいかない。


頭を抱えるカシアンに、マチルダは子供に対するような目を向けた。


「今さらでございましょう。──さ、殿下をお探しにいかねばなりませんね」


「……今日はどこへ行ったことやら」


騎士団に通達をしなければならない。


カシアンが踵を返そうとした瞬間、侍従が駆け込んできた。


「宰相どの! 魔術師レヴィアンと名乗る方がお見えです!」


カシアンの目が鋭く見開かれる。


「こんな時機タイミングで……。いや、好機ととるべきか」


マチルダを振り返り言う。


「女官長、殿下を急ぎ探すよう、騎士団長に連絡を。その間に、私が先に彼に会おう」


――まず盤面を読む。


その上で、打つ手を選ぶのだ。


ノーラの若き宰相は目には決意の光があった。

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