狩庭

百花

1

「どうしよう…」

リリアは泣きそうになりながら呟いた。周りを見渡せど、同じ草木が生い茂るばかり。帰り道はおろか、自分がどこのいるかすら分からない。

やはり、母との約束を破って一人で来るべきではなかったのだ。

絶望しながら、リリアは手に提げた空の編み籠を見遣った。

母の目を盗んでまで森へ来たのは、林檎を摘むためだ。風邪を拗らせて寝込む弟に、好物を食べさせてやりたいと思ったのだ。

しかし森へ出たはいいものの、今は瑞々しい若葉煌めく初夏。林檎など実っているはずがなかった。幼い弟のことで頭がいっぱいで、そこまで考えが巡らなかったのだ。

せめて木苺だけでも、とリリアはあちこち探し回った。

だがおかしなことに、奥へ行けば行くほど、木苺どころか黒いスグリの実すら見当たらない。

諦めて帰ろうとした時には、既に手遅れだった。無闇に歩き回ったせいで、道を見失ってしまったのである。

ただ一つの救いは、まだ太陽が天高く上っていることだ。

「…日が暮れる前に、なんとかして村に帰らないと…」

焦るリリアの鼻先を、ふわりと甘い香りが掠めた。どの花とも違う、濃厚で豊かな香りだ。

魅惑的な芳香につられ、リリアはふらりと歩を進めた。香りを辿るうち、いつの間にか不安は和らいでいった。

華やかな香りは、徐々に濃くなっていくようだった。

程なくして、リリアは異変に気がついた。見たことの無い奇妙な虫が飛び交うようになったのだ。虫たちはまるで光の粒のように、虹色の陽光を纏ってくるくると舞う。

楽しくなって、リリアは夢中でそれらを追いかけた。自分が迷子であることも、家に残してきた家族のことも、すっかり忘れてしまった。

そうするうちに、視界がだんだん開けてきた。新緑の木々の代わりに、つるりとした光沢を持つ白い樹木が現れはじめる。密のような香りもさらに強くなってきた。

リリアは我に返った。目の前に広がる光景に、思わず息を呑む。

絹のようになだらかな若草色の大地。青い羽を閃かせる蝶たちに、彩光を受ける可憐な花々。

見上げるほどの巨木は自在にうねり、そのどれもが白金色に輝いていた。涼やかにしだれる枝葉からは、色とりどりの雫が滴っている。根元では、それらが凝結したであろう見事な結晶が、色彩やかな光を放つ。

何より目を引いたのは、木々の合間をゆったりと泳ぐ古代魚たちの姿だった。優美なヒレを浅葱色に煌めかせながら、リリアの頭上を横切っていく。青空を滲ませたような薄水から、目も覚める鮮やかな翡翠へとうっすらと色を変えていく鱗は、どんな宝石も見劣りする美しさだった。

神秘の森ハントヤード。村でも言い伝えのあるその森は、リリアの想像を遥かに超えていた。

本当は、すぐにでも駆け出したかった。艶やかな木の幹に触れ、もっと近くで、宙を舞うクラゲや光る虫たちを見て回りたかった。

しかし、リリアは浮き立つ心をぐっと堪えた。頭の中で、母の言いつけが警告の如く鳴り響いていたからだ。

「ハントヤードには、決して立ち入らないこと。入ってしまったら、二度と帰ってこられなくなるの」

特に、夜は絶対に入ってはいけないのだと、母は毎日口癖のようにリリアに言い聞かせた。そればかりか、一人では危ないからと、村周辺の森でさえ誰かと一緒でないと行かせてもらえなかったのだ。

この森の何がそんなにいけないのだろう。これほどまでに美しく輝く場所は、世界中どこを探しても無いというのに。

惜しく思いながらも、リリアは渋々踵を返した。母との約束を二度も破るわけにはいかない。

と、どこからか自分を呼ぶ声がする。

「いらっしゃい、かわいいお嬢さん」

周りを見回しても、誰もいない。不思議に思っていると、愛らしい声はだんだん近づいてきた。

「こちらへおいで。ほら、ここよ」

鈴を振るような、澄んだ声。耳もとまで迫ってきたところで、リリアはやっと声の主に気がついた。

ガラス細工のように精緻な四枚の羽。抜けるような肌に、叡智を湛えた瑠璃色の瞳。豊かな髪は金糸の如く、きらきらと光を弾いている。

御伽話からそっくり出てきたような美しい妖精の姿に、リリアの胸は高鳴った。驚きと興奮で声も出ない。

「ようこそ、愛しい姫君。さあ、靴を脱いで入ってきなさいな」

妖精は誘うように、リリアに向かって華奢な手を振った。

リリアは逡巡した。ハントヤードに入ることは禁じられている。もし母にバレてしまったら、こっぴどく叱られるに違いない。

引き止める理性は、しかし、強い好奇心に脆く崩れた。

今は昼間だ。見たところ凶暴な獣などもいないし、それほど危険はないだろう。少し遊んで、日が落ちるまでには戻ればいい。

そう自分に言い聞かせ、リリアはついに、禁断の森へ足を踏み入れた。

靴を放り出すと、濡れた下草が足の裏をくすぐる。柔らかな苔はひんやりとして、心地よい。

妖精はリリアの袖を引き、嬉しげに微笑んだ。

「私たちと一緒に遊びましょう。さあ、こっちよ」

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