嫋やかな雨が降った頃
肥後妙子
第1話 初夏と冬の冷気
五月の中旬の日曜日、咲子は自分の部屋で読書をしていた。三色刷りのお気に入りの挿絵がある、児童文学だった。開けた窓からは初夏の日差しと共に薫風も入ってくる。
窓についている手すりにいつもの奴がやって来た。白と黒のモノトーンの小鳥、セキレイという種類だった。ただ、コイツは普通のセキレイと違う。流暢に人の言葉を話すのだ。
初めて聞いた時は混乱し、怖くなった咲子だが今は平気だった。セキレイはごにょごにょと主にその日のお天気のことを喋ると満足そうに鳥の声で鳴き、さっと飛んで行ってしまう。咲子が十二歳ではなく、もっと小さかったらきっと親にセキレイの事を話しただろう。でも十二歳ともなると、親に説明するのも骨が折れる出来事に遭遇していると分かってくる。
それに、一生懸命に演説のように話しているセキレイはちょっと可愛い。慣れて冷静になればそんなに怖くなかった。
だから、この日もやって来たセキレイの方をちらりと見ただけで読書に戻ったのだった。
セキレイが話し出す。
「この部屋は居心地がいい。この部屋の主は不思議な事になれている。だから冬の残りもやってくる。まだ残っている雪の冷たさが来てる。雪の冷たさもここに隠れにやって来た」
「えっ?」
咲子は久しぶりにセキレイの言葉ににビックリした。
「雪……え、今降るの?」
思わずセキレイに訊いた。セキレイは三秒ほど咲子の顔を見て静かに答えた。
「降らない」
「そう……」
戸惑いと安心が混ざった気持ちで、咲子は返事をした。
「ここに来るのは雪じゃない。雪の冷たさだ」
「なにそれ?雪はもう、この辺には無いよ。五月だし、高い山でも無いし」
セキレイは咲子の顔を見つめながら穏やかに説明をしだした。
「雪は無くなっても、雪の冷たさは毎年五月くらいまで残るんだ。五月は日差しが強くなってくるのに、五月の風はまだひんやりするだろう。あれが五月の風の中に混ざって残っている雪の冷たさなんだ」
「そうなの。でも、ひんやりした五月の風は私の部屋以外にもどこにでも吹いているんじゃないの?」
「五月も終わりに近づいてくる」
セキレイは厳かに言った。
「夏が迫ってくる。五月も初夏と言われるだけあって、もう雪の冷たさは最後の安らぎを求めている」
「そうなの。でも……私なんだかよく分からないわ。季節が変わるのを私は止められないし……」
「それで良い。もう、雪の冷たさはこの部屋に来て隠れている」
「ええ?そうなの?えーっと、どうしよう。何かすることある?」
「なにも。ただ、看取ってやればいい」
そんな風にセキレイに言われても、咲子は困ってしまった。オロオロしながら部屋をきょろきょろ見回す。
「あの、あの、どうすれば?」
「机に置いてある陶器の取っ手が付いた円い
威厳を感じさせる態度でセキレイは言った。
「これはキャンディとか、髪留めとかを適当に入れてるのよ?」
「雪の冷たさはキャンディの中に逃げた」
「ええ?」
「包み紙を開けて見てみるといい」
二か所をねじって封にしている、水色のアメの包みが一つ。ピッと両端をひっぱって開けて見る。半透明の白い六角形のアメが現れた。青味を帯びた、うっすらと細かい花柄のような模様が見える。
「綺麗……あの、これはもう普通のアメじゃないのね?」
そう言いながら咲子はアメを指でつまんだ。
「冷たい!氷みたい!」
「雪の冷たさは氷の冷たさだからな」
「ああ、そうよね……雪は細かい氷みたいなものだもんね」
雪のアメの模様をよく見たくて顔を近づけたとたん、パリンと音を立ててアメは粉々に砕けた。強い冷気が咲子を包み込む。思わず息を呑んだが、数秒後には元の五月の室温に戻っていた。
「あの、これで良かったの?」
「うん」
「そうなのかな」
「あの雪の冷たさは、最後に綺麗と言ってほしかったんだ」
「そう……なら、言っといて良かった……」
「そろそろ行く」
セキレイは背後の景色に目をやりながら言った。
「うん、色々ありがとう」
「どういたしまして。おそらく、今日を区切りに季節は夏へと向かう速度がやや上がるだろう」
「そうなんだろうね……。うん、分かった」
「さらば」
別れの挨拶の後、セキレイはふわりと風に乗り、去っていった。
しばしの間、咲子はセキレイが飛んだ窓の外を眺めていたが、読書に戻ろうと視線を下に向けた。その時、ふと気が付いた。
粉々に砕けたアメのかけらは、あのままにしておいて大丈夫なのだろうかと。
咲子は足元の床を見た。かけらは細かい水滴になっていた。触ってみる。砂糖のようにべたべたするかと思ったら、全くの水でサラサラの手触りだった。すぐに乾いてしまった。
「普通のアメじゃないってこういう事ね」
咲子は了解した。そしてセキレイの言葉を思い出していた。今日を区切りに季節は夏へと向かう速度がやや上がる……。
過ごしやすい季節が少なくなっていく。大切に使わなければ……。咲子は窓から入ってくる日差しと五月の空気を思うさま吸い込んで、ため息として出した。
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