依頼人

「……あの人、名前すら名乗らなかったね」


「そういうもんだろう。信頼を得たら教えてもらえるさ」


 ギルドを出た二人。ギルドの紋章が刻印された粗末な革鎧を身に着けた二人は、パンドリナ・ヘレナンテの屋敷を目指す。あのオークが着の身着のままで任務に放り出さなかったのが意外だ。お陰で二人は道行く人から敬意の目を向けられた。ほんの僅かな敬意を。


 街の雑踏を抜けるにつれ、道の様子が変わってくる。石畳は崩れ、木製の歩道は半ば腐って音を立てる。どこかから異臭が漂い、猫か子供か分からぬ足音が時折建物の陰から聞こえてくる。


「酷い臭い……」


「この地区が? それともこのボロい革鎧が?」


「どっちもよ」エミリは不快な表情で自分の腕や髪を嗅ぐ。「……後で入浴しなきゃ」


「おい、こんな“獣”だらけの町の浴場に入るつもりか? 冗談だろ? 羊がドラゴンの巣穴に入り込むようなものだぜ」


「じゃあ、ずっとこの臭いままなの? それは勘弁なんだけど……」


「慣れろ。数日風呂に入らなくても死にはしないさなるべく早くこの町を発つようにするから」


「……分かった。だけど、耐えきれなくなったら浴場に駆け込むから。例えそこが“ドラゴンの巣”だとしてもね」


「はいはい」


 二人は言葉を交わしながら歩を進めた。やがて目の前に現れたのは、古びた鉄柵に囲まれた館だった。二階建てで、外壁には過去の栄光を物語るような繊細な装飾がまだわずかに残っていたが、今ではそれも煤と埃にまみれている。通りに面したバルコニーには赤い布が干され、その下では太った猫がぐったりと眠っていた。


 オルサは門の鉄戸を叩いた。金属製の音が重く響く。


 しばらくして、屋敷の扉が軋みを上げて開いた。中から現れたのは、艶やかなドレスに身を包んだ女だった。美人ではあるが、その表情は氷のようだった。首元には蛇の形を模した金のチョーカー。髪は大胆な波を描いて肩にかかっている。


「まあ……この時間に来るなんて、珍しいわね。あなたたち“冒険者ギルド”の方?」


「はい。俺はオルサ、こっちは妹のエミリです。あなたが……」


「パンドリナ・ヘレナンテよ」


 女は優雅に一礼しながら、オルサの腕を取る。香水の香りがふわりと漂った。


「まぁ、なかなか……いい顔してるじゃない。悪くない」


 パンドリナはオルサを見つめたまま、彼の顎にそっと指を添える。そしてブロンドの髭をいたずらに擦る。


「絶対に犬を見つけてみせますよ」エミリは愛想良く笑みを浮かべた。「飼い犬のお名前と特徴は?」


「シルビオ」パンドリナはオルサから視線を外すことなく答えた。「毛並みは白くて、右の前足に小さな傷跡があるの。臆病だけど、とても賢い子」


 髭から手を離すパンドリナ。オルサは乱された髭を直し、咳払いする。


「いらっしゃい、詳しい話は中で話すわ」


 二人は屋敷に招かれた。屋敷の中に足を踏み入れると、途端にノクシアの他所とは別世界の空気に包まれた。香油と花の匂いが漂い、足元の赤い絨毯は厚みがあり、歩くたびに吸い込まれるように沈む。廊下の壁にはエルフ帝国の神話を描いた織物や、奇妙な動物の剥製が飾られていた。


「ずいぶん……お金がかかってますね」

 エミリがぽつりと呟いた。


「どれも最高級品よ。私は好みがはっきりしているの」


 パンドリナは後ろを振り返らず返答する。


「可愛いものと、美しいもの。そして……色男が好き」


 振り返り、オルサの短い髭を撫でるパンドリナ。


「そうなんですね……」オルサは口元を緩ませ、婦人の視線が外れると妹を見て眉をひそめた。「勘弁してくれよ」口の動きだけで妹に不快感を伝える。


 声を出さないようにエミリはクスクスと笑う。


 居間に案内され、二人は椅子に腰を下ろすよう促された。

 

 パンドリナは銀のゴブレットに琥珀色の液体を注ぎ、オルサの前に置くと、キャンドルを取り替える。


「……彼女、私のことが見えてないのかしら?」


 エミリは兄に耳打ちした。別に喉は渇いていなかったが、パンドリナの態度はあからさまだ。


 オルサは何かを答える代わりに、飲み物の入ったゴブレットを妹の前に置いた。


 催促したわけではないものの、エミリは一口飲み物を飲んだ。そしてその苦さに顔を歪める。


 パンドリナが振り向いたのは、エミリがオエッと舌を出していた時だった。差し出した覚えのない相手が飲み物を飲み、それに拒絶感を示している。婦人は顔をしかめたが、直ぐに微笑んだ。


「あら、ごめんなさい。貴女が飲むと知っていたら、もっと別のものを注いだのに」


 その声は冷たかった。


「お、お構いなく」


 エミリは苦さを堪えつつ、精一杯の笑顔をしてみせた。体の奥から沸き上がる熱さに違和感を感じながら。


「えっと」オルサは空気を入れ替えるように、咳払いする「まずは状況を詳しく聞かせてください。どんな時に、どこで飼い犬がいなくなったのか」


 パンドリナはゆっくりとゴブレットを置き、真剣な表情で話し始めた。


「依頼書には、シルビオがセレトナ街道で見失われたと書いてあるけれど、実際にはそのすぐ近くにある古い遺跡で見失ったの」


「ん? 遺跡の中で見失ったってことですか? それとも外?」


「もちろん、外よ」パンドリナは口元に薄い微笑を浮かべた。「私があんな遺跡の中に入ってくと思う? おバカさん」


 オルサはため息をつくと同時に微笑んだ。


 今になって蝋燭の匂いがむせるように香ってきた。甘い香りだ。パンドリナは立ち上がり、ゆっくりとオルサの前に歩み寄った。


「頼りになりそうな人に来てもらって良かったわ」


「そんな俺達まだ新人ですよ、今日が初任務なんです」


「あら、そうは見えないわ」パンドリナはオルサの首筋に指を這わせる。「あなたみたいな人を求めていたのよ」


「ハハハ……それは光栄──」


「兄さん、兄さん……」エミリはオルサの肩を叩く。とても眠そうな様な表情だ。「なんか変だわ……」


「大丈夫か?」


 首を横に振るエミリ。心配そうにするオルサの顔をパンドリナは擦る。


「私にとって、あなたは特別な人になりそうだわ」 そのまま彼女はオルサの肩に手を回し、耳元で囁いた。「今夜はここに泊まっていくのはどう? 私と少し話しましょう」


「ああ、えーと……」


 エミリの顔色が悪い。オルサは婦人の言葉を殆ど聞いていなかった。熱にうなされる妹、オルサの頭の中で昔の記憶が蘇る。


「すいません」オルサはそう告げて、婦人の手を軽く振りほどいた。失礼のないように優しく。


「今日はこれで失礼します」


 そう言って、オルサはエミリを肩で支えて立ち上がらさせる。


「歩けるか?」

「ええ……大丈夫」


 屋敷から立ち去る二人のイニシエイトを、婦人はずっと眺めていた。




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