第6話 静謐の対面 〜月白の間にて〜
唐の西苑の奥、春の雨を湛えた離れの一角——
そこに、「
白木と薄鼠の調度で統一されたその空間は、装飾も少なく、余白と光の揺らぎが支配する静謐の場だった。
庭に面した縁側からは、つい先ほどまで降っていた雨の名残がまだ匂い立ち、濡れた竹垣の合間をすり抜ける風が、淡い青葉の香りを室内へと運んでいた。
その座敷に、優夜はひとり、静かに歩を進めた。
衣は、淡く色を溶かしたような灰梅の単衣。白磁のような肌の上に、それはまるで霞のように柔らかく添っている。帯には、季節の花——
──一歩ごとに、空気が深くなる。
廊下の向こう。障子の向こうに、天陽と、そしてこの国の帝が待っている。
優夜は、その白木の戸の前で静かに膝を折り、掌をつき、額を垂れた。伏せたままの睫毛は、雨に濡れた葉のように長く、ほのかに揺れている。
やがて天陽の声が、扉の内から響いた。
「……お入りください。帝も、お待ちです」
声は穏やかだった。だが、優夜にはわかる。天陽が彼女の前でだけ用いる、柔らかく丁寧な語調だった。
静かに立ち上がり、戸を開ける。
月白の間は、想像以上に静かだった。室内には灯りがひとつ、香がひとつ。庭に面した障子がすべて開かれ、薄く陽が差し込む中、白木の床に光と影が淡く流れていた。
そのなかに、天陽と帝。
ふたりの青年が対座し、ひとつの卓を挟んで優夜を迎える。
帝は、予想していたよりも若く、けれどその表情には、年齢を越えた静かな達観が宿っていた。その眼差しは、柔らかくも鋭く、見る者の奥にある「核」をすっとすくい上げるような気配がある。
優夜は膝をつき、静かに頭を下げた。
「お召しにあずかり、光栄に存じます。和の国より参りました、優夜でございます」
その声は水面に触れる風のように柔らかく、しかし曇りない。発する言葉の端々には、迎える者への敬意が端正に編まれていた。
「顔を上げよ」
帝の声は穏やかだったが、どこか指先まで届くような深みを含んでいた。
優夜がそっと顔を上げると、庭からの風がわずかに衣の裾を揺らした。淡い光がその肌に触れ、朝の雪のように透き通った白が、陽に淡く照らされる。
目元にはわずかな緊張。だがそれさえも、彼女の誠実な心の現れだった。
帝はその姿をしばし眺め、ふっと目を細めた。
「君が——優夜か。……天陽からは、色々と聞いているよ」
「もったいないお言葉にございます」
「過分ではない。庭に咲く草を自らの手で植え、香を調えて後宮の者の癒しに寄せる。病に伏した女官が君の調合した香で眠れるようになったと聞いた。……まるで月の香のようだとな」
優夜は言葉を失いかけたが、すぐに静かに首を垂れる。
「月は……遠く、ただ静かに照らすもの。私の行いが、誰かの心に触れたとすれば、それだけで……本望にございます」
その答えに、帝は目を伏せ、薄く微笑んだ。隣に座る天陽の目も、どこか和らいでいる。
帝は卓に手を置き、語り始めた。
「今日、君をこの場に呼んだのは、正式な命ではない。ただ——政の周縁、あるいは後宮の医術において、君の力を借りることができたらと。もちろん、定められた役職を求めるものではない。……時間のあるときに、不定期で構わない。君の“意志”があれば、の話だ」
その言葉に、優夜は、ふと小さく瞬きをした。そして、間を置き、まっすぐ帝を見て、そっと問いかける。
「……命令ではないのですか?」
声には曇りがなく、静かながら芯の通った響きがあった。問いは柔らかくも真っ直ぐで、敬意と誠実さに満ちていた。
帝は、その問いを気にするでもなく、わずかに目を細めて答える。
「命令であれば、書面をもって通しただろう。……だが、私は君に“この国に生きる者”として関わってほしい。従うのではなく、寄り添ってほしいと願っている」
沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、冷たくも重くもなかった。障子の外、雨に濡れた竹の葉がひとしずくを落とす音が、室内にやさしく響く。
やがて、優夜は深く頭を下げた。
「……それほどまでに望まれるのならば。私の手の届く範囲で、尽力させていただきたく存じます」
言葉は、丁寧で節度があった。だがその奥には、確かに意志があった。それは、政や宮廷の外殻におもねるものではない。ただ、目の前の誰かを癒やしたいと願う者のまなざしだった。
天陽は、黙ってその姿を見ていた。その眼差しは、ひとつの花が咲く瞬間を見守るように、静かで深かった。
やがて、対話の場が静かに終わる頃。優夜は立ち上がり、ふと、戸をくぐる前に振り返った。
そのとき——
ほわりと微笑んだ。
まるで野に咲く一輪の花のような笑み。誰かの心にそっと寄り添うためだけに、そこに咲くような。凛として、けれど柔らかく——透明で、言葉以上に多くを伝える、無垢の光だった。
彼女が去ったあとの部屋に、沈黙が残った。帝はしばらく何も言わず、ふと外の庭を見た。そして静かに、呟く。
「……良き妻を娶ったな、天陽」
彼女の話を聞く度に、穏やかにそう呟く帝。言葉は、讃えるようでもなく、妬むようでもなく。ただ、どこか深く息を吐くような、真実だけを伝える口調だった。
天陽は何も言わず、ただゆっくりと盃を傾けた。その沈黙の中に、すべてが込められていた。
月白の間の扉の外で、雨上がりの庭は静かに輝いていた。濡れた竹の葉が、陽光に揺れて、優夜の存在をそっと告げているかのように。
霞を越えて、花は咲く 小鳥遊 澪 @mio1279
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