第5話 雨の庭に咲くもの
それは、春の終わり、梅雨の走りのような湿った朝だった。空は鈍く、庭の桃花は雨に打たれて静かに散っていた。
優夜は、その朝、突然倒れた。
身体の不調は数日前から続いていたのだが、口には出さなかった。異国の風土、気候の変化、そして緊張の重なり。目に見えぬ疲れが、ついに身体を蝕んだのだった。
「姫様が……!」
侍女の声に、屋敷は一時騒然とした。天陽は朝議のために宮中に出仕しており、すぐには戻れなかった。
けれど、それを知らせる使いが到着すると、天陽は筆も印も投げるように置いて立ち上がった。
「この場は、補佐官に任せる。私は……帰る」
彼が政務を中座したのは、異例のことだった。
⸻
屋敷に戻った彼が目にしたのは、寝所に静かに横たわる優夜の姿だった。色を失った唇、熱を帯びた頬。そっと額に手を当てると、燃えるように熱い。
「……なぜ、誰も早く言わなかった」
声に棘はなかった。けれど、胸の奥に沈殿する怒りと後悔が、確かに滲んでいた。
「私が……気づくべきだったのだ」
薬師を呼び、文書を集めさせ、唐の医書と照らし合わせながら、彼はふと気づく。
「これは……」
机に広げられていたのは、唐の医学書と、それと並べて記された、優夜自身の字による対照表だった。
和語と唐語、さらに西の国の言語までもが、きれいに記されている。
「……彼女は……ここまで、学びを深めていたのか」
その瞬間、彼の胸に去来したのは、驚きでも賞賛でもなかった。ただ、深く、静かな「敬意」だった。
⸻
三日後。
優夜はゆるゆると意識を取り戻した。
「……宰相、様……」
「私です。すみません、遅くなりました」
「……どうして、謝られるのです」
彼女は、力なく微笑んだ。
「私は、自分で選んで、あなたの元へ来たのですから」
「……だとしても、あなたを一人にしていた。……あなたがここまで、唐の言葉を、知識を、身につけていたことを、私は何一つ知らなかったのですよ」
「それは……私が話さなかったから。責めないでください」
一つ息をつき、彼女は言葉を継いだ。
「私は、言葉が好きでした。和にいた頃から、唐の方々と書を交わすことが、何よりの楽しみでした。薬のことも、花のことも、皆さま丁寧に教えてくださいました」
「……あなたは、ただの姫ではなかったのですね」
「私は……宰相様にとって、ただの“妻”ですか?」
ふと、そんな問いが零れた。
天陽は静かに首を横に振った。
「いいえ。あなたは……私の『尊敬する人』です」
驚いたように目を見開く彼女に、天陽は続ける。
「私はまだ、あなたを“愛している”とは言えません。ですが……人として、深く尊敬している。そして、もっとあなたを知りたいと、そう思っています」
その声は、彼らしい誠実さに満ちていた。
「ありがとうございます」
優夜の瞳に、薄く涙が浮かんだ。それは、病の苦しみでも、遠国の孤独でもない。
ようやく心に触れてもらえたという、安堵の涙だった。
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