第10話

礼――

気をつけ――


「押忍!」


道場に響く号令。

その中で、秋山彩音は背筋を伸ばし、無言で拳を握っていた。


今日の稽古も、地獄のように厳しかった。

でも、それはいい。強くなりたいから。

汗をかき、腕が震えても、歯を食いしばって前を向くのは、そのためだ。


だが、練習が終わると、彼はいつもやってくる。


「よく頑張ったな、秋山」


師範――40代の男性。面倒見がよく、厳しいが評判はいい。


そして、彼の癖。


――頭をポンポンと撫でること。


彩音は、笑顔の師範を前に、言葉を詰まらせながら軽く会釈する。

けれど、そのたびに、心がざわつく。


(……やめてほしい)


でも言えない。


道場では、師範は絶対。

怒っているわけでも、嫌いなわけでもない。

けれど――その触れ方だけは、どうしても受け入れられなかった。


帰り道。

一緒に歩いていた親友・野原千晶が、ふと口を開いた。


「今日も、頭ポンポンされてたな」


彩音は、歩きながら黙ってうなずいた。


「……嫌なんか?」


「……うん。なんか、“子ども扱い”されてるみたいで」


「でも、秋山って、大人から褒められると絶対顔ニヤけるやん?」


「褒められるのは、嬉しい。でも、撫でられるのは別」


「……なるほど、プライド高いな」


彩音は笑わなかった。


「ちがう。たぶん……昔から、人に触られるの、ちょっと苦手なんやと思う。

テニス部の後輩が、背後からタッチしてきても、ビクッてなるし」


「ふーん。でもさ、そういうのって、師範に言ったらええんちゃう?」


「無理やって。怒られそうやし、他の子は喜んでるのに、私だけ拒否したら……変な空気になる」


千晶はそれ以上、何も言わなかった。


翌週の稽古。


いつものように汗を流した後、師範が近づいてくる。


「秋山、今日の前蹴り、きれいだったぞ。ああいう姿勢を……」


その手が、ゆっくりと頭に向かう――


「……やめてください」


言ってしまった。


一瞬、空気が凍る。


師範の手が止まった。


「……すまん、嫌だったのか?」


彩音は、しっかりと顔を上げて言った。


「はい。撫でられるの、どうしても苦手で……でも、教えてもらってることは、本当に感謝してます」


師範は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。


「わかった。じゃあ、握手でどうだ?」


差し出された手。


彩音は小さく笑って、それをしっかりと握り返した。


その夜。


武蔵は屋上から、道場を見下ろしていた。


「人に触れるとは、言葉よりも深く、心に届く行為。

されど、それが“支配”でなく“尊重”であるか――

その違いを知る者こそ、真に強き者なり」


風に木刀が軽く揺れた。

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