あの日(a)

 新しい一年を迎えても、僕の心はちっとも晴れなかった。

 年末年始も仕事尽くし。テレビ局、レコーディングスタジオ、撮影現場の往復。

 それが売れている証拠だというのは分かっている。

 だけど、家族との時間は一分もなかった。

 初詣も、おせちも、初夢も、何一つ。

 SNSでは「今年も巻島葉音をよろしく!」なんて元気に挨拶しておいて、その裏側では眠れない夜が何度もあった。 

 自分を推してくれる人が増えてくれるのは嬉しいけど、それと同じくらいの速度で、邪な感情を向けてくる人が増える。

 ドラマで共演した俳優さん、音楽番組で一緒に歌ったミュージシャン……他にもたくさんいた。

 学校にいても、僕に向けられる視線に心地良いものは一つもない。

 異性の中で、僕を一人の人間として見てくれている人なんて存在しない。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 今日はようやく、久しぶりに涼に会える。

 唯一と言える、心から友達と言える相手が涼だ。

 駅の一つでも飛ばしてくれないかな。

 山手線に乗りながら、そんな事を考えていた。

 

 駅に着いて改札を出たときだ。

 最初に揺れたのは街灯だった。

 駅前ロータリーの端。冬の低い日差しを受けていた銀色のポールが、カタリと震えたのを、僕は無意識に目で追っていた。

 次の瞬間、地下から殴られたような衝撃が地面を突き上げる。

 

「……え?」


 立っている足元が波打つ。

 錯覚かと思ったが、違う。

 ビルのガラスが悲鳴をあげるように軋んだ直後、地面全体が横に跳ねた。

 突き飛ばされたわけじゃない。

 本当に、地面が生き物みたいに跳ね上がった。

 周囲の人々が一斉に叫び出す。


「地震! でかい!」

「逃げろ!」

「おい押すな!」


 駅前広場の舗装がきしみ、車道では急ブレーキの音とクラクションが重なって響く。

 ビルの窓がガタガタと揺れ、上空を見上げる人々が次々としゃがみ込む。

 風が強まったわけでもないのに、空気が唸っている。

 空そのものが揺れて見える。

 スマホの緊急地震速報はとっくに鳴り終わっていた。

 僕は立っているのがやっとだった。

 数メートル先で鉄骨が崩れる。

 周囲から絶叫。誰かが叫びながら走ってくる。

 揺れが止んでも余震がある。

 一気に非日常に引き込まれてしまった感覚が、強く脈打つ。

 

 数分が経ち、僕はようやく正常な判断能力を取り戻した。


(――そうだ、涼は、涼は大丈夫なの!?)

 

 震える指で画面をスワイプするも、電波が入ってこない。

 メッセージも電話もできない。

 ……どこかに移動して試す?

 彼女は待ち合わせに遅れるタイプではない。

 きっと近くにいるはずなのだ。

 怪我をしていたらどうしよう。一刻も早く、お互いの無事を確認しなくては。

 そう考えている途中で――またしても空気が変わった。

 街のざわめきとはまるで別の、低く濁った音が混じった。

 嫌なものが近づいてくると本能が知らせるように、背筋に冷たいものが走る。


「あああああああああああああああ!」


 耳をつんざくような絶叫。

 地震でざわめいていた駅前広場が一瞬で静まり返る。

 人の群れが左右に割れた。

 避けるように、そこだけ空間がえぐられたみたいに。

 そして、その裂け目の中から――一人の男が飛び出てきた。

 どこに行こうという意思はないのだろう。

 真っ直ぐ、ときおり何かに掴まれたようにふらつきながら。

 右手には、日差しを反射してギラリと光る、長い刃物。

 理解し切る前に、それをどこで手に入れたのか、場違いな事を考えてしまう。

 男は周囲の誰にも目を向けていなかったが、周囲の人たちは本能で悟ったらしい。


「え……え、えっ……!?」

「刃物!?」

「通り魔だ! やばい、走れ走れ!!」


 人々は四方八方に散っていく。

 押し合い、転び、叫び、泣きながら逃げる。

 地震で弱った地盤を、さらにパニックが揺らしていく。

 その上を、男は蹴りつけるように前へ進んでくる。

 その足音が、妙に鮮明に聴こえた。


(……来る)


 ようやく理解して、息が止まった。

 こっちに来る。

 逃げなきゃ。

 走らなきゃ。

 涼に連絡しなきゃ。

 そう思うのに――。


(身体が……動かない……)


 膝が震え、足首から下が地面に縫い付けられたみたいだった。

 さっきの地震の感覚で、脳がまだ混乱していたのかもしれない。

 ただ、視界の中心だけは現実を捉え続けている。

 男の腕の、振り子のような軌道。反射する刃。

 こちらへ向いている、焦点の合わない目。

 ゆっくり、どんどん、距離が縮まってくる。

 叫ぼうとしても声が出ない。

 走ろうとしても足が動かない。

 目の前まで迫る男が、刃物を振り上げ――。


「――――ッ!」


 何かに突き飛ばされた。

 身体が宙に浮き、地面が迫る。

 その直前、誰かが僕を抱きかかえるようにして押し倒した。


「ぐっ……!」


 耳元で鈍い音と、うめき声。

 私の上に乗っていたその人の背中に、何かが当たる音。

 次の瞬間、転がったその人は何事もなかったかのように立ち上がり、通り魔の手を思い切り弾いた。


「下がってろ!」


 低くて、怒鳴るでもない鋭い声だった。

 見上げた顔は、同い年くらいの男の子だということ以外、よく分からなかった。

 額から血が流れていたからだ。

 彼が睨みつけると、通り魔は一瞬だけ動きを止めた。

 そして、そのまま他の誰かに取り押さえられ、僕たちはその場から引き離された。


「立てるか?」


 僕は思わず頷いて、その人の手を取った。

 そこからは、逃げるように走った。

 後ろで誰かが叫び、警察のサイレンが聞こえる。

 でも、今は彼の手の中だけが現実だった。

 路地の隅で、彼が額を押さえてうずくまった。


「……血が……っ!」


 彼の額、髪の生え際のあたり。

 縫わなければいけないくらいの傷だ。


「だ、大丈夫……? 僕を庇ってくれた時に……」

「これくらい大丈夫だよ」


 彼は笑った。

 なぜか、ものすごく安心する笑顔だった。


「名前、教えて――」


 そう言いかけた私に、彼は小さく首を振った。


「いや、今日は遠慮しておくよ。俺はまだ、行かなきゃならない」


 そして、さっきまで繋いでいた手をすっと放し、街の人混みに溶けていった。

 心臓が強く脈打っている。

 命の危機を感じた時と同じく、強く、速く。

 でも、これは恐怖ではなく幸せだった。

 今までに一度も感じたことのない胸の高鳴り。

 それを与えてくれた相手の名前も、学校も、何も分からなかった。

 でも、あの手の感触と額の傷だけは――今も忘れられなかった。

 一時間ほどが経って、僕は偶然にも涼と出会うことができた。

 彼女は僕を見つけた瞬間、強く抱きしめてくれた。

 何度も何度も「大丈夫か」と聞いてくれる彼女も動揺しているようだったが、僕たちは無事に帰ることができた。


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