トレモロ

トレモロ 1









 大学を出た俺は学生時代にレンと始めた店を軌道に乗せた。

 店なんて最初はレンを介してヤマトとアキラに恩を売りつつ、生活費の足しにでもなりゃそんで良いかって位の軽い気持ちで手を出したわけだけど、俺には自分で思う以上の商才があったらしい。自分でもビックリやな。

 圭は建築関係が水に合ったらしく、大手ゼネコンに就職して忙しいながらも充実した日々を過ごしている。

 就職に際して親の手が回ったかどうかは知らないし、圭自身がそこに触れられたがらないから聞かないし、関心も持たないようにしてる。現状に圭が満足しているのならそれ以上はなにも望むものなんかあるはずがない。

(変に名前を間違えたような郵便物が届いたりするから名前を偽ってなんかやってんのかもしれないけどそんなのは俺にとってはどうでもいい事だ)

 千春は大学に通いながら新たに音楽関係の活動を行っていて、流石の才能だ。転がってきたチャンスをしっかりモノにしてシンガーソングライターとして成功した。

 バンドを組んだりもしているみたいだけど、音楽に疎い俺には全然わからない。そもそも口を挟むつもりも無い。千春が生きてさえいればそれでいい。今日も息をしてくれていてありがとう。



 そんなある日、俺はかなりデカイ拾いモノをする事になる。






 季節は春。

 桜が舞う帰り道、興が乗って駅からの道を遠回りしてみた。

 生ぬるい夜風に桜の花びらがひらひら舞うのを眺めながら大きな橋を渡る。

「東京ってなんでこんなに物価高いんだろ……」

 ふいに聞こえた声に薄暗い欄干を注意して見れば、橋に備え付けられてる街灯の光の届かない暗闇の先に、だらりと上半身を預けて今にも川に飛び込みそうな男が居た。

 いつかの千春の姿がダブって見えて、つい声を掛けてしまう。

「せやなぁ。でもこの辺はまだ安い方やで」

「えっ?あぁっ!?」

「なん?」

 俺の存在を全く認識していなかったらしい彼は何でか派手に驚いた。

 驚きついでにぱしゃんっと何かを川に落としてしまった。

「あー…………」

「すまんっ!自殺志願者かと思った……」

「あ、いえ……」

 早とちりしたこちらが悪いから素直に謝ったら彼はとても複雑そうな顔をしてみせた。

 残念には思っているようだけどそれを俺に向かってどうこう言う気は無いようで、そんな顔をされるとこちらとしてはなんだか申し訳ない気持ちになる。

「さっきの何?買って済む物なら弁償するわ」

「ただの夕飯なんで気にしないで下さい」

「夕飯大事やん!そらあかんわ。んじゃ飯おごる!!おごらして。な、ええやろ?」

 言ってやれば目をまんまるく見開いて、とんでもないと首を横に振ってみせる。


 きっと顔の作り自体は精悍な美青年なんだろうな。

 意思の強そうな眉に力強い瞳、厚い唇にすっと通った鼻筋。何よりも広い肩幅とがっしりした体躯なのに動作がしなやかで身長のわりにゴツさを感じさせない。

 何かスポーツをやっているのだろうか?

 圭や千春は見た目だけなら華奢な方だからこのタイプの美青年には初にお目にかかったな。

「あなたのせいと違いますし、寧ろ心配してもらってすみません」

 イントネーションが関東と違うなって気が付いた。

 うまーく誤魔化してたけど、ほんのりと。

「ん?なんや自分西の出身か?」

「あ、はい。京都の下の方で……」

「俺大阪。出身近いやん、なら尚の事ご馳走さしてや。ほな行こうか」

 すっかり興味を引かれた俺は戸惑う彼を強引に引っ張って歩き出した。





 実はあんまり早く家に帰りたくない事情がある。

 具体的には圭と二人きりになりたくないっていう。俺からしたら物凄く切羽詰まった状態になってる。

 初めてしくじってしまったのだ。

 全く以てらしくないミスを犯してしまった。

 事の発端は千春が作業部屋を作った事。

 そっちに行ったり、こっちに居たりしている現状に圭が何となく馴染めていない事に気がつかなかった。

 そもそも、俺は圭が俺以外の人間に寝顔を晒さないって事を知らなかったんだから仕方ない。


「…………は?」

 夕飯後に居間のソファでうたた寝していた圭を部屋に運んでやった時、ついうっかり。そう、ついうっかりキスをした。

 いつもは寝たらまず起きないから油断をしてた。

 今日に限ってぽってりした紅色の唇が震えて、眉が揺れる。

「み………つ………?」

 ぽやんとした表情は夢か現かあやふやで、目の前に居る俺を確認するように焦点を結ぶ。

 長い睫毛が震えて、黒尖晶石の様な瞳が俺の姿を映す。瞳の揺れ具合を見るに今の感覚をどうするか迷っているらしい。

「なんや運んだっただけやん」

「運ぶ?あ、あー」

「いつもの事やん」

「いや、お前」

 次からは気を付けなくては。

 今だってきっと納得なんてしてはいないだろう。眉間に皺を寄せてどう話すかを悩んでいる。

「ちょっと口当たったか?」

 ほら、こう言ったら良いだろ?

 そうしたらいつもの調子で返せるだろ?

「やっぱ当たったよな」

「けどほんまに少しやで?気にするかぁ?」

「マジなヤツかと思った。紛らわし」

 マジなヤツだったら圭はどうするつもりだった?

 少し頭を過ったけれど、俺がすべきはそんな事じゃない。

 今俺がすべきなのは圭の心を掻き乱さないように弟として笑って否定してやる事だ。

「俺にキスされたかったん?」

「あほか!きっしょっ!!」

「あはは、せやろ~?」

 思わず訛りを覗かせて両腕を擦るようにして口を尖らせた圭を部屋に置いて、明日の朝食と弁当の仕込みを再開しにキッチンに戻る。




 キッチンの一番奥。コンロと食器棚に挟まれた壁に凭れてずるずると崩れ落ちて頭を抱えた。

 ここなら圭が来ても入口から直ぐには見えないし、床下収納を弄ってたって言い訳もできる。

「あー……っぱ、キツイ、なぁ」

 みっともなく潤んできた目をぎゅっと瞑って抱えた膝に額を押し当てた。

 涙が零れないように片方の手で頭を押し付けるようにする。

 嗚咽はダメだ。

 圭に気付かれてしまう。

 圭は音に敏感だし、俺の感情のブレにはもっと敏感だ。

「きっしょって……ん……きつい……なぁ……」

 ついつい漏れ出た声が震えたから唇をぐっと噛んで声を殺した。

 バカみたく溢れる涙に早く引けと祈りながら、暫くそうしていた。



 圭に悪気なんてなかった。

 俺もその反応を望んだはずだ。

 そう誘導したはずだったんだ。



 放たれた言葉の威力が思ったより強力だっただけで。




 弟だから、特別。




 でも、弟は圭の隣にそういう意味で立つ事は一生無い。

 一生、永遠に、圭のたった一人にはなれない。

 なれない。

 決して報われない。






「あー……ほんま……きっつ……」


 恋ではない。

 そう思っている。

 でも、その言葉は嫌だ。


 嫌だった。



 笑って受け入れられても嫌なくせに、俺って面倒な奴。


「俺……めんどくさ……俺が一番嫌な奴やんか……」


 声を押し殺して少しだけ泣いた。






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