こころのしずく
@nogacchi
序章:真紅色の旅立ち
穏やかな日常の陰り
朝霧に包まれた石畳を歩きながら、アリアは今朝も自分の足音を数えていた。
一歩、二歩、三歩。いつからかこんな癖がついていた。
街角の街灯が黄金の光を放っている。
感情結晶の温かな輝きは、五年前から変わらない。
工場への通勤路も、湿った朝の空気の匂いも。
「今日も平穏な一日でありますように」
そう言いながら、手が無意識に胸元に向かう。
声にすれば、ほんのひとときだけ、現実もそれに従ってくれる気がした。
朝の祈りは、言葉というより習慣になっていた。
工場の正門をくぐると、煙突から立ち上る薄い蒸気が朝の空に溶けていく。
屋根の風見鶏がくるりと回転する音がした。まるでお伽話の世界のような美しい工場だった。
「おはよう、アリア」
いつものように、工場長のブラウンが作業場の入り口で迎えてくれた。
五十代半ばの温和な笑顔。ブラウンはこの工場の誰からも慕われている。
「おはようございます」
頭を下げながら、今日も彼の優しさに触れることができた安堵が胸に広がった。
足早にいつもの作業台に向かった。工場内は既に精製炉から立ち上る蒸気の音、結晶を磨く金属的な響き、そして他の職員たちの活気で満ちている。
この賑やかな空間にいると、自分も普通の一員なのだと安心できる。
作業台に並んだ感情結晶の原石に手を伸ばす。ひんやりとした重みが手のひらに伝わった。
搬入されてきたばかりで、まだ多くの不純物を含んでいる。
アリアの仕事は、これらを丁寧に精製して街で使える製品に仕上げることだった。他の職人たちと同じ、ごく普通の仕事。
専用の工具を手に取り、結晶の表面を観察する。
感情結晶にはそれぞれ固有の光の流れがあり、熟練した職人はその流れを読み取って最適な精製方法を判断できる。
五年間の経験で、アリアも基本的な技術は身につけていた。
「よし...」
小さく息を吐いて、作業を開始する。
まずは結晶の不純物を除去し、次に感情エネルギーの流れを整える。
最も重要なのは、術者自身の感情を安定させることだった。職人の心の動揺は、そのまま結晶に伝わってしまう。
だからこそ、アリアは毎日が恐怖だった。
ふとした瞬間に感情が乱れると、黄金色に輝くはずの喜悦結晶が、深紅の色合いを帯びる。
その度に、袖に隠して休憩時間にこっそりと破棄する。そして予備の正常な結晶と差し替える。五年間、毎日欠かさず続けてきた偽装工作。
「アリア、調子はどう?」
隣の台で働くベテラン職人のコリンが声をかけてきた。
その人懐っこい笑顔に、アリアは慌てて表情を取り繕う。
「はい、順調です」
声が少し上ずった。自分でも分かる。愛想よく答えながら、内心でほっと息をつく。
今日はまだ異常は起きていない。
昼休みになると、職員たちは中庭に集まって弁当を広げた。
石造りの噴水を囲んで輪になって座る。中央の天使像の手のひらには小さな結晶が埋め込まれていて、水面に淡い光を投げかけていた。
「今日の弁当、また美味しそうだな」
「うちの妻の結晶の扱いが上達してね。野菜炒めがちょうどいい具合に仕上がるんです」
みんなが日常の他愛もない話をしている間、アリアは少し離れた場所で一人、自分の弁当を食べていた。
感情結晶の制御技術は確かに生活を豊かにしてくれる。料理も、明かりも、暖房も。
でも、自分の作り出してしまうものは...
「今日は工場長の奥さんが、また手作りクッキーを差し入れしてくれるって」
誰かの声に、周りから歓声が上がった。
やがてブラウンが現れ、クッキーの入った籠を掲げた。甘い香りが中庭に漂う。
「妻からの差し入れです。みなさんでどうぞ」
職員たちが嬉しそうに群がっていく中、アリアだけは遠巻きに眺めていた。
「アリア、君も来なさい」
ブラウンがアリアに向かって手招きした。その優しい眼差しには父親のような温かさが宿っている。
「いえ、私はお腹がいっぱいで」
いつものように遠慮する。手が無意識に胸元に向かっていた。
本当は一緒にいたかった。でも近づいてはいけない。
ブラウンは少し寂しそうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
午後の作業が始まった頃、工場の奥から感嘆の声が聞こえてきた。
「すげぇ...また完璧な結晶だ」
「さすが工場長、この純度は芸術品レベルですよ」
振り返ると、ブラウンが自分の専用作業台で感情結晶の生成を行っていた。彼の手のひらから立ち上る黄金の光は、小さな太陽のように美しく輝いている。見ているだけで心が温かくなるような、純粋な光だった。
「二十年やってても、工場長の技術には敵わないなぁ」
「あの純度、一体どうやって出してるんでしょう」
職員たちの称賛の声に、ブラウンは照れくさそうに手を振った。
「みんなも十分上手になってきてるよ。経験を積めば、きっと」
謙遜しながらも、彼の生成した喜悦結晶は確かに見事だった。透明度が高く、内部に宿る光の流れも完璧に整っている。自分にはとても真似できない技術だった。
いや、技術の問題ではない。心の問題だ。
「アリア、君に頼みがある」
ブラウンがアリアに近づいてきた。精製用の工具を置いて振り返る。
工場長の表情がいつもより真剣で、何か重要な話があるのだと察した。
「はい」声が少し震えた。「何でしょうか」
ブラウンは手に持っていた書類を見下ろしてから、再びアリアを見た。
「来週から新人が一人入ることになった。マリ・アンダーソンという十六歳の子だ」
一呼吸置いて、ブラウンは続けた。
「君に、その子の指導をお願いしたい」
アリアの心臓が跳ねた。「私が...ですか?」語尾が上がりすぎて、自分でも驚いた。
「ああ。君が一番丁寧に教えられるからね」
ブラウンの言葉に、アリアは戸惑いを覚えた。自分のような問題を抱えた者が、人を指導するなんて。新たな嘘を重ねることになる。
「でも、私はまだまだ未熟で...」
また手が無意識に胸元に向かっていた。
「そんなことはない。君の作業は正確で丁寧だ。それに」
ブラウンは少し声を低めた。
「君には人を思いやる優しさがある。それが何より大切なんだ」
(私に本当にできるだろうか。。。)
アリアの視線が少し揺らいだ。
「分かりました」声を絞り出すように言った。
「精一杯やらせていただきます」
「ありがとう。きっとその子にとって、良い先輩になってくれるよ」
ブラウンは満足そうに頷いて立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、アリアは自分の手を見つめた。震えている。
新人の指導。誰かに技術を教える。誰かの成長を見守る。それは、これまで一人で抱え込んできた日常に、新しい色を与えてくれるかもしれない。
でも同時に、新たな恐怖も芽生えていた。もし新人の前で異常が起きたら。もし秘密がばれてしまったら。もし...また一人ぼっちになってしまったら。
血管が脈打って、こめかみがズキズキした。
夕暮れが工場の窓を琥珀色に染める頃、アリアは一日の作業を終えた。今日は幸い、大きな問題は起きなかった。汚染された結晶をこっそり処分したのは二回だけ。いつもより少ない方だった。
工場を出ると、夕陽に照らされた石畳の街並みが美しく輝いていた。街灯の結晶も、夜の準備を始めるように、徐々に光を強めている。
帰り道の石畳を踏みしめながら、アリアは小さく呟いた。
「マリ・アンダーソンか」
十六歳。自分より三歳年下。
風が髪を揺らしていく。夕陽が頬を染めている。
もしかしたら、少しだけ違った日々が始まるかもしれない。
心の片隅で小さな何かがうずいているのを感じながら、アリアは夜道を歩いていく。
明日からまた、いつもと同じ朝が来る。でも来週からは、きっと何かが変わるのだろう。
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