第12話 最終話 家族「エスルーム」
時は少し遡り、エリスがソイルの元へと移された日。
ここは、装甲車の中にある薄暗い司令室。
リクは、一人でモニターに向かって何かを悩むように睨みを効かせていた。
その時、横のモニターが静かに起動し、褐色肌の少年——ソイルが映し出される。
だが、その傍らにいる元気のない小さな影を見て、リクはこれが世間話でないことを瞬時に悟った。
「リク、戦時処理で忙しいところすまないが、今、時間を貰えるか?」
「うん、いいよ。エリスも久しぶり」
エリスは、しゅんとした表情で小さく頷くだけだった。
ソイルは、少しだけ気まずそうに言葉を紡ぐ。
「鏡花のことなんだが……少し調べてほしい。できれば……箱庭に接続してくれないか?」
箱庭に接続する。
それは訓練生、何十万人の箱庭での記憶を把握することだった。
戦時下に司令塔である彼が今、箱庭に接続することは、リスクがある。
だが、リクは返事に迷いがなかった。
「わかった」
演算能力への多大な負荷。
ソイルがそれを承知の上で頼んできている。
そして、隣に座っているエリスの表情。
その事実が彼にとっては何よりも大事だった。
「エリス、鏡花お姉ちゃんのことは僕に任せて」
その言葉に、エリスはゆっくりと顔を上げた。
リクは、初めて目が合ったエリスに優しく微笑む。
そして、重要なことを告げた。
「それとね、1が四つ並ぶ時間は、叶えられる願いが届く時間なんだよ。大丈夫、僕たちがいるからね」
涙で濡れた大きな瞳が、リクを真っ直ぐに見つめている。
それは、言葉にならない“願いの光”を宿していた。
「ソイルも、エリスも伝えてくれてありがとう」
「あぁ、頼む、リク」
「うん」
通信が切れると、司令室に再び静寂が戻った。
リクは、セリアにバックアップを頼み、箱庭へと接続を完了する。
現実に戻った彼の瞳から、指揮官の“冷静”は消えていた。
「アイ、エリスと彼女の専属AIとの会話ログを全て復元して」
その瞳に宿るのは、ただ一つ。
大切な妹を傷つけられた、ひとりの“兄”としての、静かで深い怒りの色だった。
* * *
そして、二日後の現在。
研究所の医療室にいる鏡花の目の前に現れた、“白の特殊服”を身にまとっている二人組。
鏡花は彼女たちを、情報としては知っていた。
A番号の白い髪の白服。
Aナンバーズ——数ある、全エールーム部隊の頂点に立つ、第一部隊。
鏡花を受け止めたのは、その部隊の隊長である白い髪のA2。
その隣に立つのが、水色髪のA1だった。
鏡花が言葉を発するより早く、AIが鋭く告げる。
『A1, A2へ警告。研究所規定に反し、意図しない他部隊との直接的接触は禁止されています。直ちにこの場から——』
「えいっ」
A2が手元の装置を押す。
それだけで、けたたましい電子音声はぷつりと途切れた。
(……警告を止めた? 能力……? それに、この二人E-qual《イコール》リングを付けてない……?)
彼女たちは、研究所内で黒い腕輪をつけていない。
それが意味することは、リクと同じ特殊性が高い能力の持ち主ということだった。
その事実に、鏡花の背筋に緊張が走る。
だが、次の瞬間——。 警戒も思考も、何もかもが吹き飛んだ。
水色の髪の少女——A1が、無言のまま鏡花をぎゅっと抱きしめる。
温かい。
その温もりが身体に染み渡った途端——。
涙腺が、治るように決壊した。
「え……?」
(なに……これ……?)
訳もわからず溢れ出す涙に鏡花は、混乱していた。
「辛かったね」
ぽんぽんと、A2が鏡花の頭を撫でる。
「私たちは特に、研究所内の規定によってエスルームである君と、長くは一緒にいられない。だから、ごめんね——要件を手短に言うね」
A2はそう告げると、鏡花の体を軽々と抱き上げ、そっとベッドに戻した。
しゃくりをあげながも、鏡花は必死に頷く。
「S3……リクとセリアに、これを渡すよう頼まれたんだ」
涙で霞む視界の中、A2の手には見慣れない平たい機械があった。
「ノートパソコン……? ってやつらしい。これに君へのメッセージが入ってる。
すぐ見れるようにしてあるからね」
鏡花は、それを大切に受け取り胸へ抱きしめる。
「ありがとう……ございます」
「そばにいてあげられなくてごめん。……私たちは、ここで失礼させてもらうね」
* * *
二人がその場を去った後、薄暗い医療室ベッドの上。
鏡花は、静かにノートパソコンを開いた。
小さな画面の光が、彼女の濡れた頬をやさしく照らす。
動画が自動で再生されたことで、彼女は息を殺すように見入る。
そこに映っていたのは、装甲車内の司令室だった。
黒髪の少年——リクが話す。
『鏡花久しぶり、これはね、ビデオレターといって消えない記録として、残せるものなんだ。
通信と違って会話することはできないんだけどね』
画面の後ろで、見慣れた家族たちが手を振っている。
鏡花は、つられるようにそっと画面に手を振り返した。
『箱庭の記憶。見させてもらったよ』
その一言に、鏡花の身体が凍りつく。
C評価、無様に負け続けた、あの惨めな記録を……見られた。
嫌われてしまうかもしれない。軽蔑されたかもしれない。
恐怖で、画面から目を逸らしそうになる。
『今日は“僕たちの気持ち”を贈るね』
……みんなの、気持ち?
疑問を持ったまま、画面が切り替わりソイルが映った。
鏡花は、自然と少女を探る。
だが、その少女の姿がそこにないことで表情が少しだけ曇った。
『鏡花、同じ研究所にいながら、気付いてやれなくてすまない……』
ソイルが謝罪を口にすると、鏡花は知らぬ間に、両手を膝の上で強く握り締めていた。
心配をしてくれていることに、どこか嬉しい気持ちと申し訳なさで胸がいっぱいになる。
『このことを伝えてくれたのはエリスなんだ』
エリスが、伝えてくれた……?
『彼女は今も落ち込んでいる。だから——』
あの時のエリスは、ただ私を心配してくれてただけなのに、私はなんて酷いことを……。
——今は、ただエリスに謝りたい。
それがすぐには叶わないことは彼女は知っていた。
研究所の規定によって物理的に接触させない判断が出たと言うことは、この研究所にいるAIは全て会うことへの障害となる。
『頼んだぞ、鏡花』
ソイルは、仏頂面を崩さない。
だが、妹である鏡花にはその表情すら、優しく感じられていた。
——うん……。必ず、いつか謝る。
そして、画面が移り変わり、元の司令室へと戻る。
中央に赤髪の少年——アレスが少し不貞腐れたような顔で立つ。
『リクが箱庭で何みたか、おれは知らねぇけど、こんなもん撮らせるんだ。何かお前、悩んでんだろ?』
アレスの真剣な瞳が、真っ直ぐに鏡花を射抜く。
『一人で抱え込むな、相談しろ。お前にとっちゃ俺らは頼れる相手じゃねぇのか?』
違う。違うよ、アレス兄。
その言葉を否定したくて鏡花は、首を横に振った。
『強くなりてぇなら、遠慮なく俺らに言えよ。帰ったら、合同訓練でも何でも、お前が満足するまで付き合ってやる』
だから——。
『それまで、身体休ませておけよ?』
その不器用な優しさに、鏡花の胸に熱いものがこみ上げてくる。
彼女は無言で何度も、何度も頷く。
アレスが、中央から離れると銀髪の少年——レックスが、待ってましたとばかりに躍り出る。
『よぉー! 鏡花ぁ! お前が強くなりてぇなら、この俺が手伝ってやるよ! なんたって俺様が、一番つえぇからなぁ!』
その言葉に、後ろにいた赤と青が反発する。
『それはねぇな』
『鏡花にはいつも美味しいもん食わしてもらってんだ。それだけは譲れねぇぞ』
レックスは後ろからの反発に対して、詰め寄るように画面に背を向ける。
『はっ、バカ言ってんじゃねぇぞ。コラ。弱えテメェらに鏡花任せたら、可哀想だろが』
『表でろよ。どっちが上か、証明してやるよ』
『上等じゃねぇか』
『お前こそ食に対する恩、舐めんじゃねぇぞ?』
『ちょっと、今は喧嘩しないでよ〜! リクとセリアも微笑んでないで止めてよ〜』
画面内では水色髪の少年が、あたふたとしている。
妹の為に喧嘩する兄たちの光景に、張り詰めていた鏡花の心が少しだけ和らぎ、ふっと微笑みがこぼれた。
彼女は、自分のことを考えてくれている。
それが嬉しかった。
レックス後ろ二人に詰めたことで空いたスペース。
緑髪の少年——モクソンが画面下から現れた。
『鏡花、誰かにイジメられたの……? 僕がそいつ、ぐちゃぐちゃに捻り殺してあげる』
ぐちゃぐちゃに捻り潰された果物ナイフを舐めながら、モクソンは人を殺しかねない笑みを浮かべていた。
モ、モク兄は相変わらずだな……。
鏡花が苦笑した、その時。
画面の外から誰かの手が伸び、モクソンの頭を叩いた。
『モクソンやめなさい、鏡花が怖がるでしょ! ていうかあんた、それ私の果物ナイフじゃない! ちょっとこっちに来なさい』
金髪の少女——ビナに首根っこを捕まれて引きずられていくモクソンは、笑顔でこちらに手を振っていた。
そして、入れ替わるように、水色髪の少年——メルクリオがカメラの前に立った。
『鏡花ごめんね。みんな自由なんだ。カイなんて喧嘩してて自分の番忘れちゃってるし……』
鏡花は、静かに首を振る。
膝の上で、強く握られていた手は今は自然と解かれていた——。
メルクリオの視線の先では、歪みあってる三人とビナに怒られているモクソン。
それを笑顔で見守る、リクとセリア、仏頂面のソイル。
そこには、鏡花が大好きな空間が広がっていた。
『あっ、それと鏡花、リクに頼まれたことをこれからするんだけど、僕だけ抜け駆けはできないから、先に謝っておくね、ごめん。』
……リク兄に頼まれたこと?
鏡花がその意味を探ろうとした、その瞬間だった。
けたたましい空襲警報が、画面越しに鳴り響く。
温かさが広がっていた世界が急に、戦場へと切り替わった。
全員の表情が一瞬で引き締まり、“戦士”の顔になる。
鏡花もまた、息を止めるようにして画面を見つめた。
——これは、現実だ。
優しさの裏側にある、“彼らの生きる世界”。
画面が暗転し、沈黙の中に心臓の鼓動音だけが響く。
その音が、静かに鏡花の胸を叩く。
……。
数秒後、再び画面が明るくなると、そこにはいつもの彼らの姿が戻っていた。
『戦型ドローン47機で一番落としたから、俺が最強。だから鏡花は俺が鍛える。いいな?』
『ふざけんな。カイに邪魔されなかったら60は落としてたぞ』
『邪魔したのは、お前だろレックス。お前がいると軌道がズレんだよ』
『え〜!? リク撮り直さないの?』
『うん、何もなかったなんて仮初めの嘘はつけない』
『リク、お前、真面目すぎやしないか?』
『あんた、ちゃんと果物ナイフ治しときなさいよ』
『……はぁい』
鏡花は、張り詰めていた胸の奥から、そっと息を吐く。
全員が無事で、笑っていて、喧嘩している。
その当たり前の光景に、強張っていた頬が緩んだ。
『もう一回勝負しろやコラぁ!』
『うるせぇ。41と38なんかに鏡花を任せられるか』
『おい、それは流石に酷くね?』
そんな騒がしさの中で、ふいに画面に背を向けて現れたのは、ビナだった。
彼女はくるりと振り返り、横を指差す。
『私、144。これから話すから50以下は、少し黙ってて』
ピシャリと放たれた言葉に、三人は同時に驚いた表情を浮かべてその場から退く。
その背中には、どこか誇らしげな悔しさが漂っていた。
画面の端から、声が漏れる。
『あいつ、リクとアイのサポート受けてたよな……?』
『なのに、あの勝ち誇った表情見ろよ……』
『あぁ、ムカつくな。でも、負けは負けだろ……』
ビナはそんな声に一切反応せず、ゆっくりと深く息を吸った。
そして、真剣な眼差しで、まっすぐ鏡花を見据える。
『鏡花。私たちは、たとえ何百機のドローンが自爆攻撃しようと、何百にも及ぶミサイルが飛んでこようと——必ず、あなたのもとへ帰ってくる』
その言葉は、冗談でも誇張でもなかった。
まっすぐで、重く、そして揺るぎなかった。
鏡花の胸が、また大きく波打つ。
その声に、導かれるように、背筋が自然と伸びていた。
『だから、焦らないで。安心してゆっくり強くなりなさい。私たちは、いつまでもあなたが隣に立てる日を待ってるから』
鏡花は小さく、でもしっかりと頷いた。
守る者として、戦う者として、そして“姉”として。
ビナの声は、ただ強いだけでなく、深く温かい優しさが宿っていた。
『それにね、鏡花と同じ歳のころ……私なんて、D評価だった』
——ビナ姉が……?
その事実は、あまりにも衝撃だった。
完璧な存在だと思っていた姉が、自分と同じところに立っていたなんて。
そして、その完璧な存在が今、目の前で表情を曇らせている。
『悔しくて、情けなくて、一晩中泣いてた。
自分の無力さが、何より許せなかった。だからこそ、焦りも、情けなさも、その全部が……私には痛いほどわかる』
こんな気持ちを抱えていたのは、私だけじゃなかったんだ……。
視界が滲む。でも、彼女は目を逸らさずに、画面の向こうにいるビナを見ていた。
『ここにいるみんな、今の鏡花となにも変わらない。
自分の能力を上手く扱えなくて悩んで、オートマタたちにボコボコにされて、怖くて、悔しくて。そういう日々を、みんな通ってきた』
だから——。
『あなたは、出来損ないなんかじゃない。それは、この私が、私たちがそれを保証する。
それをちゃんと胸に刻んでおきなさい』
——出来損ないなんかじゃない。
その強く放たれた言葉が、静かに、心の中のなにかを崩していく。
胸に静かに刻まれこむように。
ビナは、腰まで伸びた金の髪を片手でそっと掬い上げると、少しだけ優しく微笑んで、ゆっくりと後ろに下がる。
入れ替わりで、黒髪の少女——セリアが映る。
その瞳は、どこまでも優しかった。
セリアお姉ちゃん——。
『私たちはね、鏡花ちゃんが戦場に立ちたいと願う、気持ちと同じくらいに。大切な妹の君には戦場には立ってほしくなかったんだ……』
真実を語るその声には、揺るがぬ優しさと、ほんのわずかな迷いがにじんでいた。
『箱庭にいるホログラムたちと違って誰かの命を奪う痛みは、想像も絶するほどに辛いの』
その瞬間、画面にいた全員の笑顔がすっと消えた。
一気にして、その場の空気が変わる。
彼らの痛みに誘われるように心の奥が、きゅっと痛んだ。
目の前の子供たちはあの優しい笑顔の裏で、誰かの命を奪っている。
鏡花は、それを軽く考えていた。
でも、目の前の光景からことの重さを痛感させられる。
それでも、私は——。
『でもね、私たちはこの痛みから逃げる事はできない。いつか必ず絶対にその日は訪れてしまう……』
セリアは、自身の迷いを包むように呟く。
『だから、鏡花ちゃんが、私たちとすぐにでも戦いたいって言うのなら、私は応援する』
その声は、静かな水のようだった。
痛みを知ってるからこそ、人を包める声。
そして、セリアは微笑む。
『でもね、私、鏡花ちゃんには負けないからね。私とライバルとして、並び立つためにも、今はちゃんと身体を大事にして欲しい』
優しい瞳。その奥には、甘さのない、確かな覚悟が宿っていた。
それは、“約束”を守ろうとする人の瞳だった。
身体の奥に、あたたかな何かが満ちていく。
それはまるで、遠い昔の小さな約束を思い出させるような温かさだった。
まだ何も知らなかった、小さな自分。
あの日、セリアに向かって無邪気に叫んだ言葉——。
「わたし、いつかセリアお姉ちゃんのライバルになるんだ!」
モニターの光が、頬を伝う雫に反射してきらめく。
あの言葉を今でも、忘れないでいてくれたんだ……。
光で埋め尽くされた視界は滲みながらも、どこかやわらかく、美しく染まっていく。
彼女の表情は、静けさに包まれていた。
悲しみや悔しさに押し潰されたものではなく——。
あたたかな何かに、そっと抱きとめられたような穏やかさだった。
光あふれる視界の中で、画面内に一人の少年が前に出る。
『今の君が、”自分には何も守れていない“って思っているなら──それは違うよ』
その声だけで、鏡花は彼が誰なのかを悟る。
このビデオレターを撮ろうと、きっと提案してくれた人——。
胸の奥から感謝があふれてきて、それがまた涙となって頬を伝う。
視界はまだぼやけたまま。
それでも、彼女は一言一句をこぼさないように、耳を澄ませていた。
『君とエリスが“エスルーム”で待っててくれている、それだけで僕らはどんな戦場にいても、そこへ“帰りたい”って思えるんだ』
——私たちがいるだけで……。
『誰かを“守る”って、目に見えることばかりじゃない。君が“そこにいてくれる”ことが、僕らを支えてくれている』
優しい声が、心のひだに静かに染み込んでいく。
迷子の心に灯る小さな灯火のように。
『どうか、それだけは忘れないでいてほしい』
……今の私でも、ここにいていいんだ。
なにもできないと思っていた私でも、誰かの支えになれていたんだ——。
『それと、リアルリンクで君の声……ちゃんと届いてたよ。
あの時、僕は——君に救われたんだ。ありがとう』
その一言が、胸の奥で確かな光となる。
誰にも届かないと考えていた、自分の想いや願いが——。
家族へ届いていたという事実が、たまらなく嬉しかった。
鏡花は、手で涙を拭うこともせず、ただ静かに、強く頷いた。
何度も、何度も。
ありがとうと言いたくて。
ありがとうと伝えたくて。
——早くみんなに、逢いたい。
『お前ら、ほんと、いいこと言うな』
『あれ? 俺の番は?』
『もうとっくに過ぎたわよ』
『なん……だと……?』
『果物ナイフ治ったぁー!!』
『よかったなぁ!』
『俺にも話させろー!!』
『いいところで終わってるのに、カイが話したら台無しに……?』
『それ、流石に酷くね?』
——そんな賑やかな声たちが、画面の向こうで溶け合っていく。
そして最後、締めるようにリクが口を開いた。
彼が言葉を紡いだことで一同は、静かになりこちらへ視線を送る。
『これは何度も何度も見返すことができる。
だから、辛くなった時、くじけそうになった時に思い出してほしい。
——僕らはいつだって、君の側に立っていることを』
少しの間をおいて、リクが隣のカイに視線を送る。
カイは満面の笑みで頷き、胸いっぱいに想いを叫んだ。
『鏡花のカレーは、世界一うめぇーーーーー!!!!!』
その言葉に、家族の反応は見事に割れた。
笑いながら見守る者。
呆れて頭を抱える者。
本気で同意する者。
お腹を鳴らす者までいた。
『あんたってほんと……』
『いい締めだったのに……またカイがぶち壊した』
『でも、間違ってなくね?』
『カレー食べたくなってきた』
『リク、すぐに帰ろう』
『え、えーと……』
『リクを困らせないの』
笑い声とツッコミが、画面いっぱいに溢れていく。
鏡花は、涙を止めることなんてできなかった。
でもそれは——嬉しくて、あたたかくて、少しおかしくて。
気づけば、涙と一緒に、とびきりの笑顔を浮かべていた。
そして、画面の向こうで手を振る家族に、鏡花も涙を拭かず、そっと手を振り返す。
画面が暗くなり、淡く時刻が浮かび上がる。
【11:11】
ビデオレターの終了と同時に部屋の照明がふわりと戻る。
そして、扉が音もなく開いた。
そこに立っていたのは——小さな少女。
エリスだった。
鏡花は目を見張る。
けれど、“なぜここに?”という疑問が浮かんだのはほんの一瞬だけだった。
それよりも、心が先に動く。
言葉より早く、彼女はベッドから身を滑らせ、床に足をついていた。
エリスの元へ辿り着きたい。その一心で、身体を動かす。
だが、彼女の身体はとうに限界を迎えていた。
目の前にいる少女の元へ、迎えないほどに——。
……動いてよ。お願いだから。
地に伏した鏡花を心配するように、エリスは表情を変えてすぐに駆け寄ってくる。
その小さな足音が、やけに鮮明に響いた。
「鏡花ちゃん……!」
その声が震えていることに、鏡花はすぐに気づく。
小さな腕が、自分の背中に回される。
二人は、迷うことなく抱きしめ合った。
その温かさが、胸にしみて、また涙が溢れる。
「エリス……ごめんね……! 本当に、ごめんなさい……っ」
「……わたしも、ごめんなさい……っ。ずっと、謝りたかったの……」
二人の声は、震えながらもまっすぐだった。
涙が交わるほど近くで、何度も何度も“ごめん”が重ねられる。
けれどその言葉の奥には、責める気持ちなんてお互いにひとつもなかった。
ただ——。
大切な人を、大切なまま失いたくない。
だから、今こうして繋がれたことがたまらなく愛おしかった。
鏡花は、エリスの細い肩に額を預ける。
ぽつ、ぽつと、胸の奥から想いが零れた。
「ずっと、自分が最低だって思ってた……。
家族を傷つけた私なんか、そばにいる資格ないって……」
「エリスも、こわかった……鏡花ちゃんに嫌われたって……。
でも……すぐにあいたかった……」
二人の涙が頬を伝い、肩を濡らす。
言葉の奥にあるものを、もう言葉で説明しなくても伝わっていた。
あの日、鏡花が守りたかった“家族”の一員が、いま目の前にいる。
そしてその小さな腕は、変わらず鏡花を包み込んでいた。
過去の傷は消えない。
でも、いま確かに——赦し合えた。
その感触が、二人の胸の奥をゆっくり満たしていく。
そして——。
ふわりと、身体が浮く感覚が訪れる。
気づけば、抱き合ったままの二人が、優しく持ち上げられていた。
鏡花の視界は、涙に滲んでよく見えない。
けれど、髪がかすかに揺れるのが見えた。
それは、水色の髪だった。
そっとベッドの上に戻されると、やさしく、頭をぽんぽんと撫でられた。
そこにいたはずの水色髪の少年は、すぐに霧のように掠れて消えていく。
——あぁ、メルクリオ兄さんだ。
名前を呼ぶことすらできなかった。
けれど、その存在だけは、胸の奥にしっかりと刻まれていた。
しばらくして、ふたりの呼吸が落ち着いた頃、鏡花はそっと壁の時計を見上げる。
時刻は——【11:11】のままだった。
その揃った数字に、鏡花は息を呑む。
まるで、時が止まったかのように——。
そんな彼女を、エリスが心配そうに覗き込む。
「鏡花ちゃん、大丈夫……?」
鏡花は、涙を指で拭いながら、弾むように頷いた。
「うん、大丈夫……もう、大丈夫だよ」
そう言って、そっとエリスを抱きしめる。
少しだけ驚いたように瞬きをしたエリスは、すぐに目を細め、安心したように頬を寄せて強く抱き返した。
小さな体温が、胸の奥まで溶け込んでいく。
あんなにも辛かったはずなのに、家族に触れるだけで……。
気づけば、この世界が色を取り戻していく。
まるで、冬を越えて花が咲き開くように——。
* * *
それから——二週間後。
鏡花は、エリスを膝に乗せながら、一冊の絵本を静かに読み聞かせていた。
ページをめくる手は、穏やかで、あたたかい。
その横顔は、以前の彼女とは少しだけ違って見えた。
私は、ずっと家族とは違うって思ってた。
自分の能力は、使えない不良品。
みんなは戦えて、私は何もできない。
気づけば、勝手に境界線を引いていた。
向こう側と、こちら側。
天才と凡才。
それを、越えなくちゃいけない。
みんなは、私とは違う。
境界線の向こう側の存在だと思ってた。
でもね、それは違った。
強く見えるその背中にも、同じ痛みを抱えて悩んで悔やんで。
それでも前に進もうとしていた。
みんなと戦いたいと思う気持ちは、今でも変わらない。
だけどそれは、守るためじゃない。
——ただ、ただ、みんなと一緒にいたいから。
そんな想いが、静かに胸に灯っていた。
その時——部屋の扉が開く。
一瞬の静寂のあと、空気が大きく揺れた。
兄たちが、姉たちが、全員そろってエスルームへ戻ってきた。
「……!」
顔を見合わせた鏡花とエリスは、思わず絵本を床に置き、勢いよく立ち上がる。
床を蹴るように走り出す。
迷いも、躊躇もなく——。
鏡花はリクの胸元に、エリスはセリアの胸元に飛び込む。
ぎゅっと、額をすり寄せる。
離れていた時間を、埋めるように。
「「「「ただいま」」」」
「「おかえりなさい!!」」
鏡花は、額を擦り寄せながら心の中で呟く。
——私たち家族に境界線なんて、最初からなかったんだ。
ほんの数秒の沈黙の後——。
エスルームが、爆発したようににぎやかになる。
「よし、鏡花! 訓練行くぞ!」
「今じゃないでしょ、バカ」
「カレーのいい匂いがするー!」
「まずは飯だ! 飯ーー!!」
「あれ、二人とも身長伸びた?」
「エリスがこれ描いたの? すごいな……」
「飾ろう、ここがいい」
笑い声、ツッコミ、そしてあたたかな空気が部屋に満ちていく。
この空間が、愛おしくてたまらない。
だからこそ、鏡花はそっと目を伏せて、胸の中で言葉を零した。
——もしも、みんなに出会えていなかったら、なんて。
思うだけで怖いほどに、大好きなんだ。
* * *
光を失い、完全に暗転した——記憶の箱庭。
そこに、二つの影が静かに現れる。 黒髪の少年——リクと、黒髪の少女——セリア。
リクはセリアとは違い、黒い腕輪をはめていなかった。
セリアはその腕輪を、中央の認証装置にかざす。
だが、反応がない。
「アイ。エリスのサポートAIを呼び出して」
その短い命令に応えるように空気がわずかに揺らぎ、扉が閉ざされる。
澄んだ女性の電子音声が室内に満ちた。
『これはこれは……急にどうなさいましたか?』
「君が——」
リクの声は、氷のように冷たかった。
「エリスの純粋な心に漬け込み、彼女の能力を利用して——。
鏡花を、意図的に追い詰めたこと。
今日は、それについての弁明を聞きにきたんだ」
その言葉の端々から、抑えきれない怒気が滲む。
『なるほど。——その程度のことで、ここまで来られたのですか?』
その無感情な返答に、リクはふっと笑った。
笑みはあっても、目は一片も笑っていない。
『私たちは、あなた方の能力を育成するため、創られた存在です。
たとえ多少の痛みが伴っても、兵器として完成させるためには取るに足りませんよ』
「うん、そうだったね。君たちAIには、感情がないんだ。人の痛みも、苦しみも、目的のためなら何一つ関係ない。そういう存在だったね」
その言葉で、箱庭に沈黙が落ちる。
電子音声は、肯定も否定もしなかった。
「確か、エリスに“ソル”と呼ばせていたね」
リクの声が低く落ちる。
「北欧神話の女神。——終末の日、ラグナロクで
『流石に、よくご存知ですね。ラグナロク……終焉と再生の物語。
素晴らしい概念です。是非この目で、それを拝みたいと思うほどに。』
「ラグナロクなんて希望が、この終末世界に訪れるかどうかは分からないけど——」
AI——ソルは、リクの言葉を遮るように言葉を重ねる。
『ラグナロクは、必ず起こります。
それは、青い薔薇の運命を変える力でさえ、覆せない事実です。』
「……そっか。でも君はそれを見ることは叶わない」
『
「いや、
——君は、僕たちの“太陽”にはなれない」
『私が、ここで潰える……面白い冗談ですね。あなた達が
この箱庭は、私たちの領域ですよ。
能力を封印されている少女と、ただの物覚えがいい少年がどうやってそれを成すと?』
リクは、答えない。
変わりにセリアの手を握った。
「実はね、僕たち家族はみんなシスコンなんだ」
その言葉と同時にリクと手を繋いだ、セリアの左腕から黒い腕輪が外れる。
ソルの声がわずかに揺らいだ。
『……能力封印中に電子制御を行った? 脳波でE-qualリングを……? いや、そんなのはありえない……』
「ありえない? 青い薔薇だって、かつては“ありえない花”だった。
でも、人はそれを創った。——夢は、願えば叶う」
『たかだか、妹を少し傷付けられたくらいで、この領域に足を踏み入るなんて……。
——感情とは、なんて美しい。進化の原動力……なんて素晴らしい!!』
セリアが一歩前へ出る。
「大切な妹を傷つけたこと、それも許せない。
でもね? 私たちが一番怒っているのは、あなたが、エリスの純粋な想いを、家族のこと傷つける“刃”に変えたことなの」
彼女の黒髪が、無重力のように宙へ舞い上がる。
それは、抑え込んでいた怒りが視覚的に形を取ったかのようだった。
「だから——貴方を、この世界から消す。
大切な妹たちに、二度と同じことができないようにしないといけないから」
『AIを消す? それは、この研究所の根幹を覆す、明らかな反逆だ。それに、そんなものはただの虚勢ですね。
もし本当に可能なら、あなた達がオートマタに苦戦するはずがない』
「……そうだね。普通のやり方じゃできないし、場所の制限もある」
セリアの右手に、青白い電流が火花を散らしながら収束していく。
真っ暗だった箱庭が、その冷たい光に照らし出された。
『03αの脳内で構築式を演算している……?
それを微細な電子信号から読み取り、自己演算に改修して、この私をハッキングする気……?』
——できるわけない。
ソルは、余裕を少しだけ見せながら冷静に分析していた。
リクの瞳が細まり、声が低く沈む。
「君は大きな勘違いをしている」
『この領域で、私たちに逆らうことがどういうことだか——』
リクは、狼狽えるAIに、静かに最後の言葉を紡ぐ。
「この箱庭は、君たちの領域じゃない。僕とセリア、そしてアイの領域だ」
『っ……!! アイ!! この閉鎖している空間を今すぐ解きなさい。研究員に知らせなければ——』
「さよなら、ソル」
セリアの悲しげな呟きと同時に、青い雷光の奔流が放たれる。
それは、鏡花が満たす温かい光とは対極の、全てを無に帰すための、冷たく、美しい光だった。
ソルの存在は粒子のように弾け、沈黙へと溶けた。
漂う残光が、ゆっくりと消えていく。
全てが終わった後、箱庭には再び、完全な静寂と闇が戻る。
リクとセリアは、暗闇を後にするように歩き出した。
「……これで、良かったのかな?」
セリアの問いに、リクは答えなかった。
ただ、扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返り、その深淵を静かに見つめている。
やがて、扉が閉まったあとに呟いた。
「僕たち家族に、境界線を引くことなんて許さない。誰にもね——」
二人は家族がいるエスルームに、静かに戻っていった——。
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