第6話 現実と仮想「リアル」


 鼻の奥には何かが焼け落ちた匂いが、鼻腔びこうを突く。

 耳の奥ではまだ爆音の残響がこびりついている。


 次の瞬間——


「ッ……はっ……!」


 栗色の髪の少女は勢いよく身体を起こした。

 息が荒い、喉が焼けるように熱い。


 夢……? なにかが……崩れた?


 汗ばんだ額に手を当てると、手のひらが震えていた。


 わけもなく胸が締めつけられ、心臓の音が耳の奥でうるさく響いた。

 どこか遠くで、確かに“何か”が壊れた気がした。

 目には見えない、けれど確かに存在する世界の端っこ——その輪郭のようなものが、音もなく剥がれ落ちた感覚に襲われる。


 右手を伸ばし、手元に浮かび上がったパネルで時刻を確認する。


【01:11】


 不吉な数字ではない、ただの時刻だ。

 けれどなぜだか、彼女にはその数字がひどく冷たく思えた。


 部屋の照明をほんの少しだけ灯す。

 その微かな明かりの中で、栗色の髪の少女——鏡花きょうかは、自分の身体に毛布が掛けられていることに気づいた。

 そして、左手には奇妙な人形を握っていた。


 ……あれ、ヒトマタくん?


 右半身が機械、左半身が人間。

 無表情で愛嬌のない、不思議なぬいぐるみ。

 それは、エリスが大切にしているものだった。


 思い出す。

 さっきまで、エリスのお絵描きを見ていたこと。

 隣で、ぐちゃぐちゃにクレヨンで色を塗りながら、夢中に描いていた小さな背中。

 あの優しい時間の中で、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。


 ……そっか、寝ちゃってたんだ、私。


 きっとエリスが、毛布を掛けてくれてヒトマタくんまで持たせてくれたのかな。


 変な人形……。


 でも——


 鏡花は穏やかな笑みをこぼし、ぬいぐるみを胸元に抱き寄せる。

 彼女は、体温のないはずのぬいぐるみに、確かなぬくもりを感じていた。


 ——ありがとう、エリス。


 胸のざわめきが、少しずつ静まっていく。


* * *


 鏡花は、ソファの上に布団を丁寧に畳み、ヒトマタくんをそっとその上に寝かせてから、自室へと戻った。


 色彩のあるベッドに身を投げるように横たわる。

 鳥の形をした枕に頭を預け、ふと呟いた。


「お兄ちゃんたち、何してるかな……?」


『現在、彼らとは通信は取れませんよ。』


「いや、こんな時間に連絡したら迷惑だよ」


『迷惑……? 貴方は以前、よくそうしていたと記憶していますが。』


 相変わらず無機質なAIの声。

 その冷たさが、妙に記憶を刺激してくる。


『記憶の喚起かんきが必要でしたら、お手伝いします。今から四年前、貴方は真夜中、怖い夢を見て目を覚まします。すると、それがどんな時間であろうとも兄や姉に通話をかけます。』


 淡々と語られる、鏡花にとっての黒歴史。


『第一声はこうでした、“お兄ちゃん、怖い夢みた……”そして兄は、睡魔と戦いながらも、まるでナイトのようにこう答えました、“大丈夫だよ、安心して”──あぁ、この世界のどこかでこれほどまでに美しく、理不尽りふじんに睡眠を奪う愛があったでしょうか。』


 思い出したくもない実在した記憶を突きつけられた鏡花は、顔を赤く染めながら枕を抱きしめた。


「今はちょっと、大人になったの!」


 抱えた枕を、音声モニターへ思いきり投げつけた。


 ぽす……。


 枕は、ただ空を切って壁に当たり床に落ちただけだった。

 そこには誰もいない。

 AIの声が響くだけの、何もない空間。


 少しの間、虚空を見つめていたが鏡花はすぐにため息をついた。


 ……なにやってるんだろ、私。


 タイミングを見計らったように、また電子音声が流れ始める。


『……大人、ですか。人間が大人になるとは、自由を手放す行為なのですね。』


「違うよ。自由には、相手の自由を尊重する責任がともなうんだ……大人になるって、多分そういうことじゃないかな……?」


 その問いに答えはなかった。

 AIがその言葉に対して、沈黙を守ったからだ。


 その沈黙を埋めるように、鏡花が話題を変える。


「てか、お兄ちゃんたち連絡が取れないってことは……電磁領域でんじりょういきにいるんだね」


 少し間ができる。

 その、停滞した空間を壊すように機械音声は、静かに告げる。


『……いいえ、彼らは今——戦闘中です。』


 胸の奥が静かに凍りついた。

 さっきの夢が現実と地続きになり、記憶の底からぞわりと不安が這い上がってくる。


「──えっ?」


 戦闘中——その言葉に、鏡花の時間が一瞬だけ止まった。

 次の瞬間、思考も声も追いつかぬまま、彼女の身体は走り出していた。


 駆け出した鏡花の背後から音声モニターが追いかけるように並走し、淡々とした音声で質問を投げかける。


『どこへ向かうおつもりですか?』


 エスルームの扉の前に差しかかり、わずかに動作を止めた鏡花は、その問いに目だけを鋭く向けて答えた。


「箱庭。お兄ちゃんたちの“今”を、見に行くの」


 扉が開いた瞬間、再び駆け出す。

 "箱庭"という言葉を発したとき、モニターに一瞬だけ微かなノイズが走るが構わず続ける。


『貴方のような能力育成過程のうりょくいくせいかていにある者が、戦闘中のリアルタイム映像を閲覧すること。

 それは、製作者であるあなたの兄——リクさんが推奨していません。』


 鏡花は「そんなこと知ってる」とでも言いたげな表情を浮かべながら、真っ白な通路を駆け抜け、中枢区画へと走り込む。


『あれは実際に、戦場に立つことになる“ナンバーズ”専用の装置です。』


 鏡花はそのまま操作装置の前に立ち、手を伸ばしてタッチパネルに触れた。


 だが、反応はない。


 その無反応に鏡花は眉をひそめ、空中に浮かぶモニターを睨みつける。


「私はいずれ戦場に立つんだ。もう子供じゃない、ここを動かして」


『……』


 その言葉に応えるように、エレベーターが静かに稼働を始めた。


『あなたが彼らの戦う姿を目にしたとしても、結果に干渉することはできません。

 ただの“観測者”になるということが、どれほどの痛みをともなうか──あなたは、理解していますか?』


 その問いに、返事はしなかった。

 ただ、その言葉は胸に重くのしかかっていた。


 鏡花はゆっくりと目を閉じて唇を噛みしめた。


 わかってる。

 見たところで、自分には何もできないことくらい……でも、それでも──。


 鏡花の中にあるのは、家族の無事を確かめたい。

 その一心だけが、今の彼女を動かしていた。


 床下から微かな電子音が響き、機械音声が告げる。


『……到着まで、あと一分十一秒です』


 無機質なその声が、静かに時を告げる。


 時間の進みは普段と変わらないはずなのに、どうしてだろう。

 今日はやけに遅く感じる。

 いつも通っていたはずの道が、今は果てしなく遠い。


 鏡花は両手を強く握りしめ、小さく息を吸い込んだ。


 そして──。


 エレベーターが停止する。

 鏡花は駆け出し、記憶の箱庭の前で足を止めた。

 重厚な扉に手をかざすと、静かな駆動音とともにそれはゆっくりと開いていく。


 みんなは今、向こう側で戦ってるんだ。

 だから、私はそれを見届けたい。


 ——たとえ何もできなくても。

 どんな光景が待っていようと。

 それを受け止めることだけが、いまの私にできる、たったひとつのことだから。


 開かれた扉の向こうには、凍てつくような静寂が広がっていた。

 光ひとつ差し込まない、深い闇。

 まるで世界の裏側を覗き込むような、底の知れない黒。


 鏡花は一瞬だけ踏みとどまる。

 けれど、すぐに顔を上げ前を見据えた。


 迷いを置いて、足を踏み出す。

 目の前の暗闇へ、音もなく。


 暗闇に消えていく彼女の背中を、扉の外のあかりがそっと照らしていた。





【あとがき】7月22日:追記

ここまで物語を追ってくださって、ありがとうございます。

読んでくださるあなたの存在が、書き続ける力になります。

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