第4話 境界線のない「夕食」

 重厚な扉が静かに音を立てて開いた。

 その向こうから一人の少女が姿を現す。

 左手首には黒くて細いリングが嵌められていた。


 栗色の髪を持つ少女——鏡花きょうかは、俯いたままゆっくりと歩みを進める。

 痛む足を庇っていたからか、その足取りにはどこか力がなかった。


「鏡花ちゃん!」


 その声に鏡花は、反射的に笑みを作る。

 小さな少女——エリスが駆け寄ってくるのが見えた。


「エリス」


 エリスは勢いよく飛びつき、鏡花の腰に額をこすりつけた。

 その瞬間だけは、鏡花の頬にも本物の笑みが灯る。


「Aプラス、おめでとう!」


 頭をすりすりしてくるエリスの髪を、鏡花は優しく撫でながら言った。


「えーぷらす? なにそれ」


 無垢な問いに鏡花の手が一瞬だけ止まる。

 目の前の天才と自分の限界。

 ふと、その差に打ちひしがれそうになる。


「んーん、なんでもない。……いこっか」


 ほんの一瞬だけ沈んだ鏡花の表情に、エリスが小さく首を傾げた。

 けれど、その差し出された手を握り返し、ふたりは並んでエスルームへと帰っていく。


* * *


 夕食どき。

 十人は座れる大きなテーブルに、今夜いるのは鏡花とエリスのふたりだけ。

 横並びに座る二人を、小さく映し出すテーブル。

 その大きさがどこか寂しさを際立たせていた。


 鏡花の脳裏には、賑やかだった頃の情景が浮かぶ。


 笑い声、話し声、そしてこの席にいた“家族”の姿。


 今は空席になった椅子の数だけ、彼らが“いない”ことが突きつけられる。

 けれどそれは、鏡花だけの想いではなかった。


 エリスは、カレーのじゃがいもを子ども用フォークでつつきながら、ぽつりとつぶやく。


「お兄ちゃんたち、今日もかえってこない……」


鏡花も目の前のカレーに視線を落とし、小さく応える。


「そうだね……」


「カレーいっぱい残ってた……エリス、このままだとカレーまみれになっちゃう」


「大丈夫だよ、カレーは他の部屋の人たちに分けるから。明日からは、違うの食べようね」


「……うん」


 エリスの返事は少し間があって、どこか元気がなかった。


 ……あれ。カレーが嫌なんじゃない


 鏡花は気づく。

 エリスの言った“カレーまみれ”は、食材に対する不満なんかじゃない。

 それは兄たちが、今日も帰ってこなかったことへのさみしさだった。


「あ、そうだ!」


 鏡花は声のトーンを少しだけ上げて、空気を変える。


「エリス、お絵描きしよ?」


「おえかき……?」


 カレーから視線を外したエリスが、鏡花の顔を見上げる。


「うん。お兄ちゃんたちが帰ってきたら、絵をプレゼントしよう」


 その言葉を聞いたエリスの瞳に、さっきまでなかった光が戻っていた。


「うん、するっ!」


 力いっぱい頷いて、エリスはぱくぱくとカレーを食べはじめる。


 その様子を見つめながら、鏡花はそっと微笑んだ。


 彼女の胸に渦巻いていた“才能”や“出来損ない”という言葉は今は遠く離れていた。


 まるで、最初から境界線なんてなかったかのように——。

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