第1話 日常と非日常「エスルーム」

 人類がAIの扱い方を誤った時代、世界は戦火の渦に包まれていた。


 その混乱の只中、ある研究所の一室。


 無機質な白に囲まれた空間で、栗色の髪の少女はゆっくりと目を開ける。


 この部屋は、彼女のために与えられたものだった。


 机の上に、一枚の写真が大切に飾られていた。

 そこに映る子供たちは皆、創られたような整った顔立ちをしている。


 そして、彼女も"それ"は例外ではなかった。


 栗色の髪の少女——水月鏡花すいげつきょうかは幼さがまだ残る、十二歳の少女。


 彼女が横になっていたベットから起き上がり、扉の前に立つと自動で扉が開く。

 開かれた向こう側には、さらに白い空間が広がっていた。


 学校の教室ほどの広さ。

 天井は高く、窓は一切ない。


  白を基調きちょうにした空間には、シンクと調理台、大きな食卓、ふかふかのソファやカーペットが整然と並ぶ。


 幼児向けのおもちゃが散らばる床には、不思議と温かみがあった。


 整っていて、清潔で、管理されている。

 この場所には確かな“生活感”があった。


 鏡花きょうかは違和感を覚えることなく歩いていく。


 ソファの背もたれの向こうから、小さな頭がひょこりと覗く。

 目が合った瞬間、その小さな影が駆け出した。


「鏡花ちゃん!」


 ぱたぱたと少し不器用な足取りで幼い少女が駆け寄ってくる。


 鏡花はしゃがみこみ、目線を合わせてその子を抱きとめた。


「エリス、おはよう」


 ハグされた小さな少女——エリスは嬉しそうに、鏡花の胸に額をすり寄せる。


 か、かわいい……


 エリスの仕草に思考が止まりかけた鏡花は、慌てて頭を振った。


 ……はっ! いけない、私にはやることがあるんだ


 我に返った、彼女はそっと立ち上がり、エリスの頭をポンポンと撫でる。


「ご飯作るから、少し待っててね」

「うん!」


 撫でられたエリスは嬉しそうに頷いた。


 鏡花はまだ十二歳だか、この空間で“しっかりしなければならない理由”を彼女は持っていた。


 冷蔵庫に付いた電子パネルを操作すると選んだ食材が滑るように排出される。


 彼女は慣れた手つきでそれを受け取り、迷いなく調理台へ向かった。


 この研究所は、子どもたちを“兵器”として育成する場所。


 この白い部屋は《エスルーム》と呼ばれている。


 包丁とまな板を手に取りながら、鏡花はちらりと部屋を見渡した。

 そして、野菜を刻みはじめる、刃がまな板に当たるたびに小さく音が跳ねた。


 この部屋に私とエリスしかいない理由は。

 みんなは、今も戦場で戦っているから。


 その一瞬だけ、包丁を握る手に力がこもる。


 みんなと違って能力をうまく扱えない私が、この部屋に残されているのは……きっと、エリスの世話をするため。


 刻んだ野菜を鍋へ入れると、ふわりと湯気が立ちのぼった。

 白くゆらめくそれを鏡花はそっと見上げる。


 ——でも、それでもいいんだ。

 この場所で家族のみんなと一緒にいられるなら、私はそれだけでいい。


 白い部屋へ視線を移した鏡花の瞳は、まっすぐに澄んでいた。


* * *


 数十分後、カレーが完成した。


 匂いにつられたのか、気づけばエリスが隣に立っていた。

 小さな少女はカレーをよそう手元を、興味深そうにじっと見つめている。

 だが、遠慮がちに鏡花の服の裾を握りしめる。そして、目を伏せると小さな声で呟いた。


「エリス、カレーすこしでいい」


 袖を掴まれた鏡花の手がレードルを持ったまま、ぴたりと止まる。


「ん? どうして?」


 鏡花が身をかがめて優しくエリスの顔をのぞき込む。

 エリスはほんのわずかに目を伏せたまま、ぽつりと答えた。


「……お兄ちゃんたち、もしかしたら帰ってくるかもしれないから」


 その一言に、鏡花の胸がきゅっとする。


 エリスは小さな手でささやかな、気遣いをしようとしていた。


 その姿がいとおしくて、鏡花は思わずそっとエリスを抱きしめた。


 そして、そのまま小さな体を抱え、鍋の中を一緒に覗き込む。


 下からは見えなかった鍋の中。


 そこには、湯気と一緒にたっぷりのカレーがゆらめいていた。


「大丈夫だよ。お兄ちゃんたちの分も、お姉ちゃんたちの分もちゃんとあるからね」


 エリスは、鍋の中をじっと見つめたまま動かない。


 やがて、ぽかんと口を開けたまま、ゆっくりと鏡花の顔をのぞき込む。


 まるで、「こんなにいっぱいあるの……?」と問いかけるように。


 驚きに染まった表情は、じわじわとあたたかな色に変わっていく。

 頬がほんのりゆるみ唇の端が小さく持ち上がる。


 そして、こらえきれなくなったようにぱっと笑顔が咲いた。


「カレー、いっぱい食べる!」


 その声には心からの喜びが弾けていた。

 無垢な笑顔があまりにもまぶしくて、鏡花は思わず目を細めた。




 これは、残酷な世界で兵器として生まれた子どもたちの、穏やかな日常と、その裏側にある非日常を描いた物語——。

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