カラカスについて
アラニエ・カラカスの生まれた世界、つまりカラカス渓谷について話すとき、彼女がいかに信仰と親密に育ってきたかを語らなければいけない。
大陸の中心、柔らかい弧で上下をくっきりと区切る山脈をアラタルタ山脈と呼ぶ。その山脈を天から見下ろせば、一匹の大きな蜥蜴が背を丸めて死んだように見えるだろう。あるいは、いびつな葉脈のように見えるかもしれない。蜥蜴の背中より北は砂漠と冬の国である陽国、南は豊かな四季を持つソガン帝国が広がる。山脈は二つの国を気候ごとくっきりと分断し、軽薄な侵入者を決して許さない。
アラタルタ山脈の蜥蜴の首のあたり、一際鋭く天に向かううねりがアラタルタ山である。山頂は冬毛のワタヤギのように丸みを帯びた雪をずっと被っている。この様子が美しい椅子に見えることから、「神の座」と呼ばれる。
呼ばれるまでのいきさつが、以下のように語り継がれている。
まだ神と人とが親しかった頃、ある賢者が、自分の命を代償として、神との対話を挑んだ。神は快く天から舞い降りて一際高い山の山頂に椅子を拵え、座った。賢者は氷河に跪き、訴えた。この山はあまりにも命というものに辛辣である。神が命をあたため、ほどこしてくださるのなら、未来永劫その偉業は語り継がれるであろう。賢者は何度もそう訴え、そのうちに寒さと飢えで死んだ。
神は、賢者の一生を観察していた。彼が命を失った時、神は行者の骸を憐れみ、まず、ため息を一つついた。それは山脈を駆け抜ける柔らかな風となり、山の至る所に命の息づく穏やかな隙間を作った。
神は次に涙を一粒落とした。それは氷の川を作り、毛細血管のような支流が山間に溶け込んで、麓に沃野を作った。
次に、神は一回瞬いた。
左目から落ちた氷の粒達は種となって植わり、杏の実に形を変えた。右目から落ちた氷の粒達は、寒さに強い獣となり、峰の間に棲み着いた。
このようにして訴えに応えた後、神は賢者の亡骸を大きな杏の葉に横たえ、砕いた翡翠と一緒に包み、一番静かな場所に沈めた。するとたちまち、渓谷から雪が消え、太古の遺跡が姿を顕した。
そうやって山脈と渓谷の奇跡的な有り様を定めた後、神は一服し、煙草の吸い殻を山の上から落とした。それが、この山脈のあちこちに、神の厳しい教えとして落ちていった。神はそれから天に戻ったと言われている。
そのような神話を元に、山脈と山は神の名前からアラタルタ山脈と呼ばれた。また、麓の渓谷は賢者の名前からカラカス渓谷と呼ばれるようになった。
神の伝説に惹かれ、信仰に篤い者達がアラタルタ山に棲み着いた。彼らはただ神を感じたかっただけなので、指導を求めるわけでもなくただ遺跡に棲み着き、ただ神が顕現した方向を見ては思いに耽り、やみくもに深く祈り、命の短さを悲しんだ。時折、神と対話したものがあると、これを記録して残した。
ずっと後に、北からか、あるいは南からか、たどり着いた者が宗教の概念を持っていたことにより、歴史と神の教えの学び方がやっと定着した。それまで、ただやみくもに棲み着き、愚鈍に祈り、時折わめいていた者達は皆修験者と名乗るようになり、遺跡は神殿と呼ぶようになった。修験者の生活基盤としてカラカス渓谷に修道院が置かれた。北からも、南からも、神について学びたい者は国教の区別無く身を寄せることができた。
やがて、政治的な小競り合いから聖地を守るように、修道院を見守る位置の館に、近隣から武の立つ者を呼び寄せて近衛として住まわせる習わしになった。彼らは、無血の聖地において唯一刀を託されている者、という意味合いで「つるぎとり」と呼ばれた。
元より、氷河の脆さ、足下の悪さ、気候の荒々しさから見ると、カラカス渓谷は領地としての魅力に欠けている。その上、修験者を名乗る者であればどのように怪しい者でも領地に受け入れなければならないなら、獲得したところで、面倒が増えるだけである。そうしてカラカス渓谷は政治的な保護の元、聖地としての立場を強固にしていった。
やがて、以前からその周辺に居住していた遊牧民が立ち寄るようになった。彼らの作る作物を、修験者達が必要としたからである。やがて、遊牧民のなかには、定住する者が現われた。耕作のため、灌漑を行い、生活用水が確保できるようになった。天幕暮らしがいつからか素朴な小屋を拵えるようになり、やがては石造りの民家が集って、定住した。彼らは集落の名前が必要だと思わなかったので、必要があるときはただ「カラカス渓谷の者」と名乗った。
集落の基礎が整ったことで、隊商が立ち寄るようになった。いつからか名産となった干し杏は「カラカスから」と説明された。そうして、カラカス渓谷に済む者もまた、カラカス族と呼ばれるようになった。
カラカスはこうして発展したのである。
この奇妙な巡りあわせは神の意志と思う者もいたし、近年では、さほど信仰を持たない者も住む。せせらぎの周りには杏が植わり、春には薄桃色の花を一面に咲かせ、秋には見事な紅葉を見せる豊かさは、神の膝元として似つかわしいとしか言い様がなかった。カラカスの雄大な自然のことを隊商が世間に広めるとき、しばしば「天国のような」と表現された。その方がよく杏や胡桃が売れたのである。
いつしか、この修道院にて学び、神殿に祈りを捧げることで、たぐいまれなる霊力を得ることができるという噂がまことしやかに流れ始め、冒険者、研究者、錬金術師、魔術師を名乗る連中がやってくるようになった。カラカスの修道院で学んだという経緯は、内容はともかく彼らの胡散臭い肩書きに箔をつけてくれるのだった。
修験者達はそれらもおおらかに受け入れていた。少なくとも、傍目からはそのように見えたが、ある日を境に行方を眩ました。彼らは、カラカスに何一つ未練を残さず、より深い雪山へ住み替えた。軽薄な連中につくづく愛想が尽きたのは明白だった。
山に分け入った修験者達は山羊の民と名乗るようになった。文字通り、山羊ににせた仮面をかぶり、個を捨てたのである。
つるぎとりの一族には、山羊の民と連絡を取るやりかたが密かに伝授された。彼らに何かを強要することはできないが、彼らが了承すればどこからともなく麓におりてくる。古いしきたりなどを行う時、必要があればつるぎとりが山羊の民を喚ぶ役目になった。つるぎとりの家系は、カラカス族の族長をつとめるようになった。
山羊の民は高潔で、去るときに何も持ち去らなかったので、後には神に関する文献が大量に残された。神殿は閉められ、修道院は残された文献を教科書にして学ぶ学校となった。陽国にしろソガン帝国にしろ、子を学校に送り込む流れは絶えなかった。学校では神についての教えだけでは無く、歴史や算学についても学ぶことができるようになった。
村に取り残された人たちは、礎が立ち去っても、新たなあり方を探したりはしなかった。カラカス渓谷は肥沃で大変美しく、政治的な軋轢や不安もなかったからである。
アラニエは、ここで生まれた。聖地であり、天国のようにかぐわしいこの村の、つるぎとりの娘として生まれた。
次の春で十八歳になる。
狂姫アラニエ異聞 木星 @KombudashiUmami
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