十一、死闘のあとには乾杯を

 ぼろぼろの船に張られた帆が風を受け、大きく膨らんでいる。

 ひとりも欠けることなく魔物との闘いを終えた船乗りたちが張り切ってこいだ結果、船は翌日の日暮れ前には死の海域を抜けていた。

 燃える陽光の熱が和らぎ、揺れる水面におやすみの口づけをしようかという今。船はゆるくうねる波に身を任せつつ、最小限の船員の手で帆の向きを調整しつつ軽快に進んでいる。最小限以外の船乗りたちはというと、勝利の酒に大いに酔っていた。


「おいおい、お嬢ちゃん、その脚何本目よ? ちっこいのによく食うなあ」

「んへへ~、二本目です! 不死鳥の灰を食べてからこっち、前よりたくさん食べられる気がするんですよね~。食べたものがすぐ消化されるというか」


 焼いたタコ脚、もとい大食渦潮の脚にかぶりつくイーダの姿に船乗りのひとりが感心したように酒をあおる。へらへらと笑うイーダもまた酒を飲んではタコ脚をかじってご満悦だ。


「二本って、そんな一抱えもあるのが二本も入ってたまるかよ」

「あんたといいあの兄ちゃんといい、そろって度を越した大食いだなあ」

「グラトニーしゃんはこんなもんじゃないですよ~。なんたって魔人なんですからね、歴史に残る、暴食の魔人!」


 赤い顔をしたイーダはろれつの回らない口で言って、なぜか誇らしげに胸を張る。魔人と聞いて驚きもせず呆れもせず「そうかあ。立派なもんだなあ」などと言っているあたり、男たちもそうとう酔っているのだろう。

 何がおかしいのかけらけらと笑い合っていたが、やがてイーダはタコ足を抱きしめていびきをかき始めた。船乗りたちはまだまだ飲み足りないとばかりに、中身の残った酒樽を探してうろつきだす。

 焼いた魔物の脚に顔を押し付けたイーダの頭がこっくりこっくりと上下する姿は、なるほど舟をこぐ動きに似ていなくもない。そんなことを思いながら、グラトニーは喧騒から離れた船べりに背を預けて座っていた。

 夕焼けはすでに熾火のように小さくなり、頭上には夜が迫っている。

 見上げた夜空の星を道しるべにするのだと聞いたことはあるけれど、旅をしたことのないグラトニーには星の違いなどわからない。百年前はまじまじと景色に目を向けることさえなかったのだな、と不思議な心地で青とも黒ともつかない空を見上げていた。


「あんたは飲まないのか」


 波音を遮らない静かな声にグラトニーが目を向けると片手に酒瓶を、片手につまみの乗った皿を持った船長が立っている。


「……人間が集まって飲み食いをするのは、どんな意図があるんだ」


 不要だ、と切り捨てて会話を終わらせなかったのは、未だ痺れの残る身体が動かせなかったせいだ。けれどそもそも会話に応じたのはなぜなのか。グラトニー自身わからないまま、彼は問いかけていた。


「意図?」


 船長は目を丸くしたが、すぐにグラトニーからすこし離れた船べりに立ったまま背を預けると、あごをこすりながら「ふうむ」と言葉を探す。


「楽しいから、だろうか」

「楽しい。食うことがか?」


 グラトニーにとって苦痛しかない行為を人間は好む。凝り集めれば魔人を生み出せるほど、その欲は深い。けれど食への欲を持つ魔人として生み出されたグラトニーには、食べるという行為が身体を維持する以上にどんな意味を持つのか、ずっとわからないままだ。わからないけれど、それはなぜなのかとはじめて疑問を持ったことに気づかないグラトニーが重ねた問いに、船長は「そうだなあ」とつるりとした頭をなでる。


「食うのは楽しいぞ。うまいし、腹もふくれる。だがそれだけじゃないな。いっしょに食うことで同じ時間を過ごすことが楽しくなるし仲も深まる。食の好みを通して互いを知ることにもつながる。嫌いなやつと進んで食卓を共にするやつはいないだろ」


 にかっと笑った船長の声はやや弾んでいて、彼の言葉が本心だと伝えていた。

 人間が食うのは身体を作るため、体を動かすためだというグラトニーの知識が塗り替えられる。必要以上の食事を摂ることは欲深いことであり、人間はその気持ちを抑えられないのだと、その欲を集めて生み出された自身は底なしの欲を抱えた異物だとばかり思っていた。

 だというのに。


「腹を満たしたい欲だけじゃ、ないのか」

「そりゃそうだろう。でなきゃ、煮たり焼いたり味付けに工夫してみたり、あれこれ手間暇かけた料理なんて生まれないさ」

「そう、か」


 なんて事ないように言われた言葉が、グラトニーの何かを揺さぶった。


「船の上じゃ手のこんだ料理は無いが、楽しく飲んで食うにはじゅうぶんさ。あんたも、どうだい?」


 船長が親指で指した先にはにぎやかな人の輪がある。それぞれに好き勝手騒ぎ、無秩序に動き回る様は騒々しいはずなのに、今のグラトニーには「にぎやかな集まり」に感じられた。そこに誘われたことへの煩わしさも無い。

 あの輪のなかに、自分が加わる。

 そんな光景を思い浮かべたグラトニーだったが、静かに首を横に振った。


「……いや、やめておく」

「なんだ。酒が苦手なら果物を絞るぞ。次の夜明けには港に着くからな、食料の心配も無いから食いたい物があれば出してもらって構わん」

「いや」


 気の良い船長の申し出を遮って、グラトニーは腹をさする。


「まだ痺れが抜けきれないし、腹の調子が、な」


 触手に喰い破られた彼の腹の傷は未だ万全ではなかった。暴食の権能の力で肉は修復され、出血も無い。けれど権能の効力は、魔人が死なない程度にしか発揮されない。死なない程度に、道具としての機能に支障が無い程度に修復されるよう作り上げた帝国は、すがすがしいほどに根性がねじ曲がっているとグラトニーは感心してしまう。


「そうか、そうだな。大食渦潮だけじゃなくて幽霊船も喰ってるんだもんな。食あたりってやつか」


 言って、船長は不思議そうにグラトニーの腹のあたりに目をやった。その薄い腹のどこにあれだけの物が収まったのだろう、と観察するその視線にあるのは純粋な好奇心だけ。

 嫌悪も畏怖も感じられない船長の視線にグラトニーは居心地悪そうに座り直し、ぼそりとつぶやいた。


「恐ろしくは、ないのか」


 ざあん、と遠くで波の砕ける音が鳴る。酒を飲み交わしていた男たちは次々と酔いつぶれ、いつの間にか宴席は静かになっていた。飲み方をわきまえた数人がちびちびと酒を傾けるなか、はずれくじを引いた数人の船員のかすかな衣擦れの音が波間にさざめく。


「俺は暴食の魔人だ。人じゃない。その気になればあんたらごとこの船だって丸呑みできる。そんな化け物の横で気を抜くなんて、どうかしてる」


 グラトニーの声は大きくはなかったけれど、自嘲するような声は静かな夜の甲板に妙に響いた。

 その響きがすっかりと波の音に消えるころ、船長が身じろいだ。酒瓶を呷り、濡れた口端を乱暴にぬぐって空を仰ぐ。


「長いこと船乗りをしてるとよ、恐ろしい目にあうこともまあ、あるわけよ」


 瞬きはじめた星を見上げる船長の目は夜空の星を映してはいたが、見つめているのはどこかもっと遠い場所だ。


「海に呑まれた仲間もいた。魔物に喰われた仲間もいた。俺自身、死にかけたことも何度かあるし、海ってのはまあ、そういう場所なんだよ」


 不意に視線を戻した船長と目があって、グラトニーは戸惑いながらも首をかしげる。意味がわからないと言いたげな反応に、船長は笑って続けた。


「ようは、危険かもしれないだなんて理由であんたを避けるんなら、俺らはとっくに海から逃げ出してなきゃいけないってわけだ。それにあんた、良い奴だしな」

「そう……か」


 そうなのだろうか、と釈然としないものを感じながらも、グラトニーは船長の言葉の力強さに押し切られていた。

 そうか、とふたたび小さくつぶやいたグラトニーの口角がかすかに上向いているのを目にした船長は、その場にどっかりと腰を下ろす。膝が触れるほどの位置に並んで座り、遠慮なく距離を詰める。


「この短時間で痺れが取れたんなら、明日になったら腹の具合も良くなるだろ。そしたらあんた、俺の家に来いよ。港町だからな、漁師の飯をご馳走するぜ」

「いや、しかし」

「大したことはできねえけどさ、船と船員を守ってくれた礼だ。遠慮しないでくれよ」

「別に」

「うちの嫁さん、魚を使った料理がうまいんだ。もちろんあのお嬢ちゃんもいっしょに来ればいいさ」

「でも……」

「漁師の家庭料理なんて店じゃ食えないぞ」

「…………」


 食べたい、と思ったわけではなかった。

 グラトニーが断る言葉をつづけられなかったのはしつこい船長のせいであり、重ねられる誘い文句が尽きなかったせいであり、イーダは確かに喜ぶだろうと思ったせいだ。

 けしてにぎやかな食卓を共に囲む自分を想像したわけではなかったけれど、グラトニーは断りの言葉を口にしないまま小さく頷いた。

 強面の船長はにっと笑って、グラトニーの肩をばしりと叩く。


「じゃあ、明日を楽しみにしてろ。とびっきりうまいやつ作るよう、うちの嫁に頼んでやるからよ!」


 楽しみだ、というにはグラトニーの食うことへの嫌悪は未だ根深かった。代わりに返したのは「そうか」という味気ない一言だけ。

 それでも船長は満足気に酒をあおり、グラトニーは月明りに照らされた宴席の惨状を眺める。人びとを眺める魔人の横顔がいつになく凪いでいるのを見た船長は、静かに酒を傾けるのだった。

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