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寛が点けた煙草の先が、暗闇の中で小さな赤い点となってまたたく。紫煙が夜気と混じり合い、すぐに消えていった。
「普通の奴らは今頃、あったかいベッドの中でぐっすり眠ってんだぜ。で、朝になったら満員電車に揺られて、昨日と同じ会社に行く。信じられるか? そんな毎日」
寛は、誰に言うでもなく呟いた。
「別に、それが普通なんじゃないの。そういうのが『ちゃんとしてる』ってことなんでしょ?」
隣でスマートフォンのカメラをいじっていた真奈が、悪気なく言った。彼女にとっては、それが世界の真理なのだろう。
「ちゃんとしてるのが、そんなに偉いわけ?」
今度は江莉が、静かだが芯のある声で反論した。彼女はプールの底を眺めながら、膝を抱えている。
「誰かが決めた『ちゃんとしてる』って物差しに、自分を合わせるのが正しいなんて、誰が言ったの」
「…まあ、そりゃそうだけどさ」
真奈は少しばつが悪そうに口を噤んだ。こういう、少しだけ哲学的な会話は苦手なようだった。
羽依里は三人のやり取りを、黙って聞いていた。寛のシニカルな態度も、真奈の無邪気な現実肯定も、江莉の静かな反骨心も、どれもが自分の中にある一面のような気がした。だから、誰かを肯定も否定もできない。ただ、この場所が、江莉の言う『物差し』が通用しない世界であることだけは確かだった。ここでは、学歴も、職歴も、将来の夢も、何の意味も持たない。ただ、『今、ここにいる』ということだけが、唯一の事実だった。
「いいじゃねえか、別に。普通でも、普通じゃなくても」
寛が煙を吐き出しながら言った。
「俺たちは今、ここにいる。世界の誰よりも、最高の場所にいる。それだけで十分だろ」
その言葉は、奇妙なほど説得力を持って響いた。羽依里は、寛が時折見せるこういうところに、惹きつけられているのかもしれない、と思った。彼は、物事をものすごく単純化して、一番大事なことだけをすくい上げるのがうまかった。
「…なんか、お腹すかない?」
場の空気を読んだのか読んでいないのか、真奈が唐突に言った。
「こういうとこ来ると、無性にカップ麺とか食べたくなる現象、名前付けたいよね」
「分かる。背徳感マシマシで美味く感じるんだよな」
寛が笑う。
「残念ながら、今日のディナーは各自持参のカロリーメイトだけだが」
「えー、マジかあ。寛のリュックなら、なんか色々入ってると思ったのに」
「俺のリュックは四次元ポケットじゃねえんだよ」
そんな下らない会話が、やけに心地よかった。羽依里は、自分がここにいることを、心の底から受け入れているのを感じた。昼間の世界にある息苦しさも、将来への漠然とした不安も、ここにはない。あるのは、巨大な静寂と、確かな存在感を持つ仲間たちだけだった。
しばらくの沈黙の後、寛が不意に立ち上がった。
「なあ、お前ら」
その声には、悪戯を思いついた子供のような響きがあった。彼は懐中電灯で、プールの向こう側を照らし出す。光の先に、天に向かって伸びるカラフルなチューブの塊が浮かび上がった。ウォータースライダーだ。赤、青、黄色。色褪せてはいるものの、その螺旋状のフォルムは、今も人々を楽しませるための機能美を失っていなかった。
「せっかくだから、あれ、滑ってみねえ?」
その提案に、一瞬、誰もが息を呑んだ。
「はあ?」
最初に声を発したのは江莉だった。
「正気? 水、流れてないんだよ。ただのプラスチックの筒だよ、あれ。途中で引っかかって出られなくなったらどうすんの」
「大丈夫だって。俺が昔テレビで見たけど、プロのスノーボーダーとか、オフシーズンにウォータースライダーで練習するらしいぜ? あれ、結構滑るんだよ」
「それ、雪用のワックス塗ってんじゃないの。あんた、そんなもん持ってんの?」
「持ってねえけど、気合いでいける」
根拠のない自信に満ちた寛の言葉に、江莉は深いため息をついた。
「馬鹿じゃないの…」
「え、でも、面白そうじゃない!?」
意外にも、真奈が目を輝かせて乗り気になった。
「誰もいないプールで、ウォータースライダー滑るって、超ヤバくない? 動画撮ったら絶対バズるって!」
「ほら見ろ、真奈ちゃんは分かってんじゃん。これはもはや、アートなんだよ。俺たちにしかできない、インスタレーションってやつだ」
寛は得意げに胸を張る。
江莉はまだ「あり得ない」という顔をしていたが、多数決では分が悪いと悟ったのか、それ以上強くは反対しなかった。
三人の視線が、自然と羽依里に集まる。彼女がどう出るか、窺っているようだった。
羽依里は、闇の中にそびえるウォータースライダーを見上げていた。危険だ、というのは江莉の言う通りだ。馬鹿げている、というのもその通り。でも。
でも、滑ってみたい、と思った。
あの色の褪せたチューブの中を、身体一つで滑り落ちていく。その先に何があるのかは分からない。ただ、暗闇の中を猛スピードで突き進むその感覚は、きっと、今までに味わったことのないものだろう。それは、この退屈な現実から、一瞬でも完全に解き放たれる行為のように思えた。
羽依里は、静かに頷いた。
「…やってみたい」
その一言で、決定した。
「よっしゃ! 全員一致だな!」
寛が拳を突き上げる。
「…知らないからね。怪我しても、私は助けないから」
江莉はそう吐き捨てたが、その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいるように見えた。
四人は立ち上がり、ウォータースライダーのスタート地点がある、錆びた鉄のタワーへと向かって歩き出した。これから始まる馬鹿げた冒険に、羽依里の心は、奇妙な高揚感で満たされていた。
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