第2話 厄災は突然始まるもの 黒崎祐司郎の場合

 ピロピロピロピロロン ピロロロン ピロロロン ピロピロピロピロロン ピロロロン ピロロロン……


 電話が鳴っている。実家からだ。自らセレクトして設定した曲だから間違いない。


(不吉)


 黒崎くろさき祐司郎ゆうじろうは刹那にそう思った。


 この曲は滅多に鳴らないが、ひとたび主張を始めると厄介だった。


 祐司郎はこの曲を『嵐を呼ぶメロディ』と呼んでいる。世界中の人間は、この曲のタイトルを『エリーゼのために』と承知しているのだが、そんなことは祐司郎にとってまったくもって関係なかった。


 手が震える。


 たがだか実家からの電話にこうも手が震えるとはなんという体たらく――とそう思うのだが、どんな厄災を浴びせかけてくるのかと想像したら体の芯から震えが起きる――というのはさすがに言い過ぎだ。


 祐司郎は自分のくだらない妄想に向けて、こほんと一つ咳払いをすると、スマートフォンを手に取って通話ボタンをタップした。


「もしもし」

『祐司郎、今、いい?』


 母の声が妙に弾んでいるように思うのは、たぶん、きっと、間違いなく、絶対、気のせいではない。


「いや、今は忙しい」

『今月最後の日曜日、こっちに来てもらえないかしら。大事な用があって――』

「だから、今、忙しいんだって!」


 反射的に叫んでいた。


 忙しいと言っているのに勝手に話を進めていく。悪い兆候が顕著だ。今すぐ、この電話を切ってしまいたい衝動に駆られる。


『お父さんの知り合いから縁談をいただいたのよ。とても綺麗で、立派な家柄の方よ。写真を見たらあなただって気に入ると思うわ』


 嘘こけ――とは相手に失礼なので口に出しては言えないが、反応したら墓穴を掘ることになるので黙っておく。


「見合いなんてしないから断ってくれよ」

『そういうわけで、今月末の日曜日、駅前のグランドパシフィックホテルの1階ロビーに十時だから』

「勝手に決めてんじゃねーよ!」

『遅れたらお父さんの顔に泥を塗ることになるから、ちゃんと来てね。三週間後だからね。じゃあ』

「おいーーーー!」


 電話は切れた。


 手の中のスマートフォンを見下ろしながら祐司郎は呆然となった。行きたくないが、『父の知人』というキーワードが絶対命令を示している。


「……マジか」


 はあ、という大きなため息を落とし、祐司郎はこの難局をどう切り抜けるか、その方法を、ちょっと頭を冷やしてから考えようと思ったのだった。



 翌日の月曜日。


「というわけで、窮地なんだ」

「へえ」

「いや、真面目に聞いてくれる?」

「俺はいつでも真面目だけど、お前はふざけてんのかと思ってたよ」

「どういう意味だ?」


 始業開始時間三十分前。社員食堂という名のおしゃれなカフェエリアで、祐司郎は同期の野田のだ誠司せいじを捉まえて昨夜のことを愚痴っていた。


 野田は満員電車を避けるため、八時前に出勤してコーヒータイムを取っている。対して祐司郎は自転車通勤なので満員電車は関係ないが、社食で朝食をとるために早く出勤していた。


 ここは日本橋に自社ビルを構える日本有数の人気高級アパレルメーカー、アーベリック・モード・パレス社、略してAMP社の本社だ。祐司郎はAMP社の社員で、婦人服部門ハイ・クオリティ・モード部、こちらも略してHQM部、で営業をやっている。


 その甘いマスクと優雅な立ち居振る舞いは、ハイソなマダムに絶大な人気を得ていて、営業成績は常にトップクラス。もちろん、仕事外の時間は、生まれ持った武器を最大限生かし、麗しい女たちと幸せ過ごしているのだが。


「なんとか失礼に当たらないような断り方を考えてくれないか?」

「つきあっている人がいるとかでいいんじゃないの?」

「それはするかしないかの選択権を与えられている時の手だろ。今回はもうセッティングされてんだよ」

「勝手に決められたんだろ? だったらその日は用事があると断りゃいいじゃん。人のスケジュールを確認せずに決めたのは親なんだから、張本人に責任取らせろよ」


 祐司郎は、あああっと頭を抱えた。


「それができたら苦労しない」

「わかんねぇなぁ。マダムのスターなお前がさ、親に頭があがらないっての漫才みたいだ。ガキかよ」

「オヤジの交友関係が重すぎる文鎮ばっかで、俺なんか風の前の塵なんだよ」

「ふーん」

「だからさぁ、野田ぁ、いい案考えてくれよ。頼むよ、メシ奢るから」


 口をへの字にして呆れたように横目で睨んでくる野田に対し、祐司郎は手を合わせた。そこへ――


「黒崎さん」


 と、澄んだ高い声が背にかかり、祐司郎ははっと息を止めた。


(この声は――明治部長)


 声の主を把握した瞬間、祐司郎の中でカチリという音とともにスイッチが入った。


「明治部長、始業時間前にわざわざお越しとは、どういったご用件でしょうか」


 隣で呆れの表情を深めている野田の視線を完全に遮断し、祐司郎は優雅に立ちあがって振り返った。そして微笑む。


「寛いでいるところごめんなさい。野田さん、用件はすぐに終わるので席は立たなくていいわ」


 離席しようと腰を上げかけた野田に明治がそう告げる。


「僕も聞いていて、いいんですか?」

「ええ」


 HQM部の部長は、代表権を持たないとはいえ取締役の肩書きを持っている。高級スーツに身を包む美貌の若きエリート部長である明治は、野田に向けてニコリと微笑んだ。そして優雅に野田の隣に腰を下ろす。


「黒崎さん、実は折り入ってお願いがあるのよ。メールや呼び出しでは申し訳がないから、直々に出向いたのだけどね。もちろん、仕事の話よ」

「なんでしょうか」

「上海の、ハイソなマダムが集まるとある会で販売会を開くことになったわ。その責任者として出向いてほしいのよ」


 ご指名だ。祐司郎の肩が期待でビクンと跳ねた。だが――


「出発は明後日、期間は一週間程度。ここは商談次第だから明確な日数ではないのだけど。スケジュールの調整は可能かしら」


 その瞬間、今度は口元がビクリと震える。


「――大丈夫です。調整します」

「そう、よかったわ。あなた、今、大きなプロジェクトに携わっているのでどうかと思ったのだけど、こちらも時間をかけてアプローチした相手なんで、絶対に成功させたいのよ。マダムに人気のあなたなら、必ずうまくやってくれるだろうと信じているわ」

「買っていただき、ありがとうございます。光栄です。全力を尽くします」

「ありがとう。あとで詳細をメールするわ。では、よろしくね」


 明治はほっとしたように微笑み、去っていった。


「いやぁ~、やっぱ明治部長、いい女だよなぁ~。とてもアラフォーに見えない若々しさ」


 野田が褒めてるんだかディスっているんだかわからない口調で言った。


「ソレ、セクハラ発言じゃね?」


 祐司郎の返しに野田の顔がぎょっとなる。


「え!? ダメ? ギリ、セーフだろ?」

「アウトじゃね?」

「どこがダメなんだよ」

「とてもアラフォーに見えないって、アラフォーであることを下げてるからさ」

「あーー、なる。以後、発言には気をつける。けど、まぁ、それはさておき、直々に頼まれるなんて、さすが黒崎だねぇ。しかも一週間の上海、いいねぇ! 浦山だよ、う・ら・や・ま。これでまた出世……どうかした?」


 野田が上海と言った途端、祐司郎の顔色が変わった。非常に青い。ものすごく青い。野田は怪訝そうに首を傾げた。


「黒崎? おい、息してるか?」

「ヤバい」

「は?」

「ヤバいよ」

「ヤバいって……ああ、見合いの話だったな」

「違う、上海だよ、出張。今、妹に頼まれて、ペットを一年間預かってるんだ」

「ああ、そういうこと。それこそ実家に預かってもらったらいいだろ」

「ダメなんだよ。ウチはペット絶対不可なんだ。おふくろが動物アレルギーで。だから妹は、高校出たら一人暮らしを始めた。今、海外出張中で、帰ってくるまであと半年残ってる。どうしよう、一週間も出張だなんて! あ、野田、お前、世話しに通ってくれ」

「できるわけないだろ、毎日残業なのに」

「くぅーーー」


 顔を顰める祐司郎を、野田が見下すようなまなざしで眺めている。


「見合いだって出会い方の一つと思えばけっこう楽しそうだし、部長自ら出向いてのご指名なんて名誉だし、ツキまくりじゃねーの。羨ましすぎて妬ましいっての」

「ドアホ。窮地が倍になって思考回路がショートしそうだ。どうしよう」

「なに言ってんだ。頭冷やせ。ペットのほうはペットホテルに預ければいいだけだし、見合いも行くだけ行って、気に入らないって断ればいいだけだろ。俺、忙しいんでもう行くわ。じゃあな」

「あ、おい、野田」


 野田は精悍な顔に「アホらしくてやってられるか」と、油性マーカーででも書いているようなくっきりはっきり前面出しして、さっさと行ってしまった。


 一人残された祐司郎は、呆然とその背を見送っている。そして右手を額にやった。


(可及的速やかに、面倒を見てくれる人を見つけないと。でも……アイツを見てくれる女性っているのかな。香奈かなはちょっと趣味が変わってて……)


 脳内大混乱だ。しかしながら、ここは始業時間前の社員食堂で、いつまでも頭を抱えているわけにもいかない。祐司郎は立ち上がり、所属するHQM部が入るフロアに向かったのだった。


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