第3話 とても勝手な待ち合わせ

 学園都市のターミナルからエレベーターに乗りやってきたダンジョン地下三階。マカミくんは以前と同じように一人でモンスターを倒しながら石の通路を勝手に進んでいく。「面をかせ」とイルナに言ったものの、彼は変わらずこの調子だ。


 もちろん、イルナもただマカミくんの後ろについていくだけのつもりはなかった。本日何度目かの彼が取りこぼしたモンスターをまた見つけて、長い杖をしっかりと両手に握り構えた。そしてイルナの傍に飛び出してきた橙色の兎、心強いソウルメイトのキャロットと一緒に戦闘のスイッチを入れた。





 粘体モンスター【デロデロ】の倒し方は知っている。イルナは愚直に杖を振り続け、キャロットの作った隙に目一杯叩き込む。そうして半透明の粘体の中に抱えていた石を砕き、デロデロをまた一匹撃破した。


 イルナはいつものようにソウルメイトのキャロットと勝利のハイタッチを交わした。だが、その喜び方はどこか元気がない。飛び跳ねていたキャロットが首と長耳を傾げるほどに、イルナは何かを思い悩む──そんな冴えない表情をしていた。


 そんな時、先を行き見失ったと思ったらまた背後の石通路から忍び現れたマカミくんが、イルナに問いかける。


「おい。なんで【カバーカード】を使って治さねえ? 弱いのにケチってんのか?」


 デロデロを退治したものの、イルナの膝や肘には転けた様子がうかがえるほどの擦り傷があった。もちろんこれくらいなら我慢することもできるだろうが、【カバーカード:トロン】で傷を治すこともできたはずだ。


 それにマカミくんは、デレデレとの戦闘中であったさきほどのイルナの動きには精彩がなく、これまで見せていた彼女のパフォーマンスと比べてもその元気さや豪快さを欠いていると感じていた。


「け、ケチってなんかないし! そっ、それは……なんか、思ったようにできなくて……?」


 イルナは決してケチっている訳ではないと強く言い返すが、徐々に歯切れ悪くトーンダウンしていき、カバーカードを何故か今は使えないことを恥ずかしく言いにくそうに告白した。


「あぁ? できないだと? じゃ、まぐれだって言いたいのか?」


 マカミくんは、形相を顰め首をかしげ、さらにイルナを問い詰める。


「あのときは、その、なんか……いっぱいいっぱいだったし……やり方が……なんか……」


 前のめりに来た彼の面と、圧に、イルナはたじろぐ。そして、また話す威勢のない彼女の言葉は歯切れ悪く──


「そんなんだから舐められるんだろ」


「ふぇ……?」


 マカミくんは、ぼそりとそうつぶやいた。そして言動も表情も冴えないイルナへと、自分の黒ローブの内ポケットをまさぐって何かを手渡した。


「こ、これ? トリノ先生の名刺? あ、無くしてたヤツだ! え? マカミくんが拾ってくれたの?」


 マカミくんがイルナへと手渡したのは白い札。イルナがあの日失くしたトリノ先生から貰った名刺であった。


「やっぱお前とろいな。それはソイツの名刺なんかじゃねぇ。手に持って試しに念じてみろ」


「念じる? わ、わかった。────ぬぬぬぬ……ふぬぬぬぬぬぬっっ…………なにも?」


 マカミくんはイルナが間違って思い込んでいる情報を否定した。そして、指をかるく差しイルナに「念じてみろ」と命令した。


 「念じてみろ」なんて漠然なことを言われたが、イルナは困惑しながらもマカミの目を見て頷いた。言われた通りに白い札に力を込め、目まで閉じてそれらしく念じてみるが────


 なにも変化はない。イルナは曲がったりも他の先生の名前も浮かびもしないまっさらな白い札を見て首を傾げた。下から札の裏を覗いてみても、やはりそこには誰の名前も書かれてはいない。


「貸せ」


 マカミくんはイルナが難しい顔で鑑賞していた白い札を素早く奪い取った。


 そして、手に取ったそれを長い指で挟み「念じてみる」。


 同じように目を瞑りながら、されどイルナとは違う力みのない静かな表情で、すごく集中していた。


 イルナは、目を瞑ったまま綺麗に黙るそんなマカミくんの顔に吸い寄せられるように、まじまじと見入ってしまっていた。


 そして指に挟む白いその札が、じわじわと青く染まりゆく。まるでコップに水が満たされるように底から、青く、青く────その時、急に彼の青い眼は見開かれた。


 突如、鋭く見開かれた彼の青い眼に、澄ませていた兎の耳はピンと立ち、見つめていた白髪の少女の鼓動はドキりと跳ねた。


「────てことだ。パスタ食べるときおまえ、スプーンつかうだろ? これがそのスプーンってヤツだ」


 実演を終えたマカミは、もう一度イルナへと手渡す。今度は青く染まったその札を。


「白い札が……青くなって……ふぇ!? ってどうしてわかったのマカミくん!? スプーン! 使うし! あ、もしかして!? 念じた……から?」


 マカミくんが変化させてみせた青い札を見てイルナは驚く。それはもう赤い両目をパッと見開き咲かせて、驚くが────


「て、お前な……はぁ。くだらねぇ。萎えた、やっぱ帰るわ」


「な、なえっ!?? ま、マカミくん!? 待って! ……これが名刺じゃなくてスプーン? な、なななんでぇ??」


「しるかよ。自分で考えろ、めんどくせぇ」


 マカミくんは長い溜息を吐き、ひどく呆れた様子でそっぽを向き、それ以上とんちんかんなことを宣うイルナの面に彼が振り返ることはなかった。


 石の通路を引き返し、だらけた様子で去ってゆく彼の背をイルナは慌てて追いかけた。


 「スプーン」と「名刺」の謎は混乱して走るイルナの頭ではまだ解けず、まとまらない思考に複雑に絡まるばかりであった。


 ただ、彼女の手の中に煌めいた青い札が、冷たく四角いヒントを残していた────。








 ここは学園都市エデン西区にあるタウンマリア。タウンマリアは、新入生が学園都市に入学してからの一年間、入居し滞在することが可能な、新入生向けに保護された家々の立ち並ぶ居住区画である。


 ここの家賃は稼ぎが少ない者にも負担になはない程度の格安だが、一年経ったら他の住む場所を自力で探し出ていかなければならない。また学園都市へと入学してくる新入生たちのために、入居していた者はこの場を明け渡すことになるだろう。ちなみにこの一年間という厳格なルールを設けたのは、現在の校長ではなく、別にいる学園都市の都長の敷いた政策なのだとか。


 つまり新入生は一年でダンジョンに慣れ、気の合う仲間を見つけパーティーを築く。宝を回収し、学園ポイントを稼ぎ、ダンジョンの探索者ダイバーとしての活動をしていかなければならない。


 あるいは別の道を探る。ダンジョンに挑むだけではなく、ソウルメイトカードの個性を活かした仕事をして学園都市で生活している物も多数いる。例えば有翼のSMCソウルメイトカードを持つものは、運搬業や高所での学園棟や建造物のメンテナンスなどを。海や水のSMCを持つものは、漁業や、海底ケーブル・パイプ・トンネル・海底居住区の補修作業など。火の息吹のSMCを宿し鍛冶鍛造が得意な者もいる、そういう者はダイバーたちの武器を提供する裏方に回る傾向がある。


 もちろんイルナ・ハクトにも、裏方への道は用意されてある。彼女は兎のSMCの恩恵である回復のカバーカードを使うことができた。西区で営業をする第六保健室のヒユ・エイシア先生のように、ダンジョンに挑むダイバーたちの治療に専念することも可能だ。ただし、カバーカードを繰り返し発現させ、その恩恵を安定して使いこなすことができればの話である。



 タウンマリアにあった余りものの古民家にイルナは住んでいる。今日も今日とてそんな小さな古民家に帰宅したイルナは、狭い寝室のちょうどいい大きさのベッドの上で考え込んでいた。


 今日、ダンジョンに挑み、マカミくんから返してもらったこの札がなんなのか。硬いベッドに仰向けになりながらイルナは、その札を手に取りじっと眺めている。


「きれい……」


 薄暗い部屋に輝く青は、光の波紋を描きながら水面のように揺らいでいる。


 じっと眺めていた青い札を耳に近づけてみる。まだ冷気を感じ、水の音が聞こえてくるようだ。


 気付けばイルナは青い札を頬にあてて目を閉じていた。そしてしばらく浸っていたひんやりとした何故だか落ち着く感触を味わうと同時に、気付いた。


「ひゃわっ!? こ、これは、ちがくて……!!」


 目を覚ましたイルナは一人赤らみ、布団をかぶった。大胆なことをしていたのに遅れて気付いてしまったのだ。仰向けから裏返り布団の中に隠れるも、耳たぶが熱くなる。


 一人布団の中にこもり、誰も聞いていない弁明の念仏を唱えつづける。そして恥じらいがやんできたころに、くしゃくしゃ髪の頭を布団から出して息継ぎをした。


「け、結局マカミくんが言ってた【スプーン】の意味は、なんだったんだろう? このトリノ先生からもらった白い名刺がマカミくんからもらっちゃった今は青く冷たくなっちゃって…………だはぁ~……ダメだぁ……ぜんぜんわかんないかも……」


 マカミくんが今日ダンジョンで言っていた「パスタのスプーン」の意味を考えるも、イルナにはやはり分からない。ただ──


「でも、なんかこれ、落ち着く……」


 もう一度その青を眺めては、近くに引き寄せる。


 そう、もっと近くに────


「ってまたやっちゃってぇえええ!! ちがっ、ちがくて!?」


 また青い札を頬に当てて目を閉じていた。布団にこもるほど赤らんだ先程とデジャヴするような行為をまた、気付いたときにはイルナの手が体が勝手にしていた。


 そんな主人の騒ぎ声が気になったのか、飛び出てきたソウルメイトのキャロットが、うつ伏せで敷布団に顔を埋めていた白髪の頭の上に乗った。


「あふぇっ!? キャロットも……気になるの?」


 キャロットはイルナと一緒に青く輝く札のことをじっと見つめている。そして、頭の上で飛び跳ねてイルナに元気に返事をする。


「うーうん。そうだよね! キャロット! よーし、わたし、やってみる!!」


 キャロットはただ遊びたいだけかもしれない。だがそんな頭の上でぴょんぴょん跳ねるキャロットに発破をかけられた気になったイルナは、寝そべっていた布団から勢いよく立ち上がった。


 青い札を両手にしっかりと取りながら、メラメラとやる気に満ちた炎のように赤い瞳で見つめた。「念じてみろ」「自分で考えろ」そんなダンジョンでの彼の投げた言葉を思い出してゆく。イルナ・ハクトは自室の布団でぬくぬくと寝転んではいられない。


 兎にも角にも、「やってみる」ことにした。


 青い札を力を込めて握り、念じるように目を瞑る。ベッドでキャロットが跳ねて応援している。新入生イルナ・ハクトの謎の修行が熱を入れて始まったようだ。









 午後の校舎、中庭の真ん中に突っ立ち目を閉じ集中する。その様はまさに手に取った白札に念じつづけるようだ。


 そんな白髪の女生徒の力んだ表情を、木にもたれ座りながらレポートを書き、黒髪の女生徒はただただ見ていた。


『なんでそこまで頑張るふりに熱心なの。それって一種のナンセンスじゃない?』


『とにもかくにもぉおおぬぬぬぬ……がんばる!』


『答えになってないんだけど。提案だけどそろそろあきらめたら、どう?』


『ふぬぬぬぬ……! いま一度あきらめたら、明日明後日もきっとあきらめちゃうから! だから何度つまずいても、落っこちても、あきらめない! そうすれば一度もあきらめない自分が向こう側にいるから!!』


『……私、次の講義あきらめてんだけど。じかん』


『ふぇ!? ってえええええ、ごめんごめんねヒユちゃん!!』


『謝るよりさっさと終わらせたら。もうどのみち間に合わないし。だから、あなたがあきらめる瞬間、見ててあげる。先生の【プロトカード】の使用レポートとしてまとめて提出するから』


『あははは! いいよ、でも……とにもかくにも飛び越える!! その向こう側の景色を見たいから!! わたしはッ!!』


 白札をおもむろに額にあてる。白髪の女生徒はまた目を閉じた。


 白髪の念じつづける横顔を見つめる、まるで伝播するように黙り。黒髪の女生徒は、静かにペンを止めて、ただただ────





 夢から覚めたイルナは、額に薄っすらと汗をかいていた。


「ゆめ……?」


 暗がりの部屋の中。まだ夢うつつにぼやける頭で、さっきおぼろげに見た夢に聞こえた言葉の断片を思い出し反芻する。


「とにもかくにも……そう、とにもかくにも! そ、それだ!」


 マジナイのように唱える。その言葉に感化されたイルナの瞳に、新たな決意の光が宿った。


 そしてイルナはベッドから飛び起きる。左の頬に貼り付いていた青い札が、彼女の白い素肌をすべり落ちた。



 突拍子もない夢だった。そして今となってはもう記憶もあやふやな夢。だが、そんな夢から覚めてからのイルナは、まるで何かに憑かれたように修行に没頭した。


 食卓に並んだパスタをフォークで巻きながらも、彼女の視線は常に、いつも使うスプーンの代わりに手にした青い札に釘付けだった。


 ジョギングで居住区タウンマリアの舗装路を走っている時も、疲れてベッドに倒れ込んだ時も、手にはその薄まった青の札が握られている。


 受講したトリノ先生の講義中も、握りながらぶつぶつと唱えて寝ていた。


 来る日も来る日も、彼女は愚直に札に力を込め、集中し、そして念じ続けた。時には何も起こらず感じられずに途方に暮れ、時には頭が疲れてそのまま眠ってしまうこともあった。それでも彼女は、諦めることなくそれだけをただただ続けた。


そして、落とし物の青い札をマカミくんから渡されてから12日目の朝のことだった。


 古民家の小さな寝室で、イルナは今ではすっかり青が抜け白くなった札を、おもむろに額にあてて目を閉じていた。


 集中した意識は、札にまだ残り手のひら指先を伝うわずかな冷気と、熱帯びた額でつながる。


(とにもかくにも……! とにもかくにも……!!)


 心で唱えて念じつづけた、その時だった。


 まるで栓が抜け脈動するように、彼女の握り続けていた感覚が、額に集いくすぶっていた熱が、札の方へと流れ始めた。やがて札を纏う光が強くなり。


 イルナは暗く閉じた瞼の先に映る眩しさに、目をゆっくりと開いた────


「ふぇ……ひか……って……? で……できたああああっ!!!」


 イルナは光を宿し色付いた札を見ては、思わず叫んだ。喜びのあまり、ベッドの上で飛び跳ねる。横で見ていたソウルメイトのキャロットも、イルナに合わせてぴょんぴょんと高く跳ね、二人は古民家の小さな部屋で喜びの舞を繰り広げた。


「キャロット! キャロットできたよ! わたし、できたよー!! できてる!! できちゃったよーっ!!」


 しかし、その喜びの絶頂で、イルナはピタリと動きを止めた。


「あ……」


 顔は興奮で赤く染まったまま、赤い瞳が大きく見開かれる。


(で、できたはいいけど……マカミくんに、どうやって伝えよう……?)


 彼女は、それができてからのことを何も考えていなかったのだ。マカミくんのDカードのアドレスも知らないことを今、思い出した。


 手持つ札は乾いたようにその枠に溜め込んでいた輝きを失っていく。


 想い悩むイルナの白髪の頭の上で、キャロットは長耳を垂れ不思議そうに、呆然と立ち尽くす主人の顔を覗き込んだ。






 Dダイバーカード。学園都市エデンの管理する様々な情報ネットワークにアクセスできる軽量型の電子端末だ。


『Dカード学園通信サービスへようこそ』


 イルナは震える指で、Dカードを操作し、通信サービスにアクセスした。脳裏にはダンジョンで共に行動し、そして去っていった彼の顔が浮かぶ。


(えっと、Dカード登録者名で検索────マカミ……あった!)


『学園ポイントをつかって、Dカード登録者名【マカミ】にお電話をお繋ぎますか?』


「よっ、よろしくおねが……ふぇ? 20万ポイント!?」


 画面にポップアップし表示された文字を読み進めるイルナの指が、ピタリと止まる。


 システムの無機質な音声が、その事実を淡々と告げる。


『イルナ・ハクトとマカミに、Dカードが管理するパーティー登録の記録はありませんでした。従って、ご利用料金は一回のお電話で〝20万学園ポイント〟が必要になります』


 イルナのDカードに表示されている所持ポイントは、わずか21万学園ポイント。20万学園ポイントといえば、ただの電話一本をかけるだけでイルナにとって大金が必要であるということとイコールだった。


「どうしよう……!」


 彼の情報を見つけた喜び顔から一転、大きな壁が立ちはだかる。


 しかし、イルナは、まだそこに熱が残る白い札を握りながら────


 イルナは意を決し、画面の「通話開始」のボタンに指を伸ばした。








 意を決したイルナは、タウンマリアの古民家を飛び出した。そして、再び西区ダンジョン前エレベーターターミナル、通称【憩いの円環】へと向けて走っていた。時刻は午前、まだダンジョンに向かうダイバーの姿はまばらだ。


 やがて、息を切らしたイルナが憩いの円環の中央にいる。すぐさま、辺りを探すがまだ彼の姿は見えない。


 通信サービスを利用し留守電を入れたが、彼はそこにいない。しばらく誰もいない其処で待ち続けるも、やはり────彼の来る気配はない。


 ひとり突っ走り、盛り上がっていただけなのかもしれない。熱帯びた彼女の体が、朝の冷たい風に吹かれた。そんな変哲のない風が知らせるように、彼女の頭が、今になって冷静になる。


「そう、そうだよね……何やっちゃってんだろわたし……こんな朝に、──変、だよね……」


 ずっと汗ばむ手に握りしめていた白い札を見ながら、イルナは俯く。一つ、ぬるい息を投げかけるように吐く。札にぶつかった吐息はむなしく、ただただ悔やむ。自分の取った迷惑で勝手で馬鹿な行動を。やがて、どうしようもない恥じらいが押し寄せ、頬を耳を赤らめて募る────。


 気が抜けたようにしゃがみ込み、歪んだ地のタイルに留まった水たまりに、しょぼくれた顔を向けていた。


 誤魔化すように首を左右に振り、やがて一人で頷く。小さな水面に映る自分のことを笑いながら、納得する。


 イルナがまた、ゆっくりと立ち上がろうとした。その時────


「なんだ呼び出しといて、自分はさっさと帰る気か?」


「ま、マカミくん!? いたの!?」


 イルナが後ろから聞こえた声に振り返ると、そこにはマカミくんがいた。石段に悠然と腰掛けたその青い眼が、振り返ったイルナの表情を捉える。


「『いたの』じゃねぇよ。さっさとしろよ。ふあ……ねみぃ」


 マカミくんは大股を偉そうに開き、石段を腰掛けたまま、だるそうにあくびをした。


「わ、わかった! えへへ、見てて!」


(自信かよ)


 イルナは、はにかむような笑顔を見せた後、一転──真剣な表情で札を両手に掲げ、目を閉じた。


 円形広場の中心、静寂に黙り佇む彼女の周りの空気が、微かに騒ぎ揺れる。


ゆっくりと、絞り出すように。彼女の額にあてた白い札に、虹色の雫が一滴落ち──染まりゆく。


 わずか一滴の虹色は広がり、念じつづけた札は仄かに光り始めた。その光は、微かながらも確かに、彼女の周囲を淡く照らす。


「どう、どう……かな?」


 おそるおそる、だが、期待に満ちたイルナの問いかけに、マカミは無言で数秒間、彼女を見つめ返した。


 そして、ふと鼻で笑うような音が聞こえた。


「フンッ。これでカバーカードをつかえるな」


「ふぇ?」


 イルナは拍子抜けしたように瞬きをする。マカミくんが発したイルナの耳に聞こえた一言は、「おめでとう」でも「よくやった」でも「下手くそ」でも「馬鹿」でもない。


マカミくんは、まるで驚き呆れたような表情でそんな何も知らないような反応を見せたイルナを睨みつけた。


「おまえ……」


「ま、マカミくん!? その顔は……!」


「しるかよ。ボケ」


「ぼ、ぼけ!?」


 やはり何も知らずに札を念じていたと、優れた彼は愚直な彼女のことを見透かす。


 マカミくんはそれ以上何も言わず、無言で座っていた腰を上げ、憩いの円環の小階段を上り始めた。


 しかし、ふと、マカミくんは立ち止まり、下の窪地で固まる彼女の方を振り向いた。


「やっぱお前、とろいな。……ま、とろいなり──だな」


「とっ、とろくな……ふぇ?」


 それはけなされたのか、褒められたのか。「とろくないし」と覇気なく返そうとしたイルナだったが。


 不意に、眩しくさした朝日に、立ち止まる黒髪が黄金に染まり揺れている。


 青い瞳は静かに、見つめている。


 そんな眩しい光景と青く冴えた彼の視線が、見上げるイルナの赤い瞳に、ダイレクトに突き刺さった。


 それだけ告げると、また光さす向こう側へと歩きだした彼の背姿。


 「とろい」にも色々な種類があることをイルナは初めて知る。マカミくんが放ったその一言は、とても爽やかな風のように、イルナの心をくすぐった。


「ほめて……くれた?」


 イルナ・ハクトは立ち尽くす。そして、ただただ見つめる、今も遠くなる彼の背を追うように。


 そのとき不意に、橙色の兎が飛び出した。ぴょんぴょんと軽快なリズムで、石段を飛び跳ね上っていった。


 やがて追いついた兎の両耳を片手につかみ、立ち止まる黒髪のシルエットがある。


 勝手に飛び出したソウルメイトのキャロットと、片手で持ち上げたキャロットのことを睨みつけるマカミくんがそこにいる。


 ぎゅっと握る札に宿る虹色の煌めきの雫が、急に走りだした風にキラキラと流れる。


 憩いの円環に立ち尽くしていたイルナ・ハクトは、石段の先の向こう側へと、明るい顔で駆け出した────。

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